現代文語彙一覧

現代文語彙

なぜ現代評論の問題を難しいと感じるのか。

それは、貴方が現代世界という森の中をさまよっているからだと思います。暗い森を抜け出したい。でも、どの方向に進めば良いのか、全くわからない。目の前の木や草を見る事はできる。実っている果実を食べることもできる。ただ歩いている。ご飯だよという言葉に反応して食事をする、学校に行くべきだという周囲の言葉に反応して登校する。自分は何かを求めている、でも何を求めているのかが、わからない。みんなとは違うんだ、そう言いながら学校指定制服を脱ぎ捨て、変身したつもりで、丈を短くしたり、長くしたり、裏地に刺繍のあるものを買ったり、テレビやSNS、どこかで見かけた別の制服に着替えている。自分は子どもではない、そうつぶやいて,おいしくもない煙草を吸って大人になったふりをしている。

どうすれば現代評論文が読み解けるのか。まず、自分のいる森の構造を学ぶべきです。どんな形をしているのか。どこに入り口があって、どこに出口があるのか。道は何本あるのか。世界は、どんな風にできたのか、どんな構造をしているのか。今、自分はその森のどこに位置しているのか。

 

 

構造が見えてきたら、今度は自分です。自分は何者なのか、何を求めているのか、自分の足で、自分の意思で歩いているのか。そもそも自分とは何者なのか。

さあ、それでは旅に出かけましょう。とりあえず光の見えそうな方向に向かって歩き出しましょう。さまざまなものを見て、さまざまな経験を重ねる中で、自分が何者なのか、何を求めているのかもわかるかもしれません。このおびただしい量の私の妄想世界をさまようことで貴方自身が何かを見つけてくださることを祈念いたします。

 


(追記)題材として、思いつくまま妄想を重ねていきたいと思いますが、過去のセンター試験問題の評論の一部をも、話題として、いくつか取り上げたいと思います。これなら著作権の問題にも抵触しないかなとも妄想しております。具体的には現代文語彙の12番目からが評論問題の一部を取り上げる形式で書いています。11番目までは、入試等で取り上げられる事の多いテーマを取りあげながら書いています。ギリシャ神話のキマイラではないつもりですが、これからの説明においては、長年の教員生活で手に入れてきた、多くの著者の文章に書かれていたさまざまな記事を使うことになると思います。恐らくはあちこちのつまみ食い、論文の剽窃のような事態になるやもしれません。自分の意識の内部で、どこまでが自分の持ち前の思想や思いつきで、どこからが受け売りかもわからないような始末でございます。学者でもなく、教員でもない市井の趣味人の老いの繰り言だとお考えくださって、ひらにご容赦願いたいと思います。学識、造詣の深い方の失笑をかう内容にも、なっておると思いますが、妄想、すべてが妄想と言うことで、はじめたいと思います。(使用している写真、イラストは自撮りのもの、無料のもの、それに無断での掲載のものが含まれます。全くの教育目的、悩める生徒諸君の救済のための使用ということでご理解いただきたいと思います。もちろんお叱り等の指摘があれば、即座に消去させていただきます。)

2022年02月02日

現代文語彙2

自意識について
今、この記事を書いているという私の行動は、他の人に見てもらいたいと思っている行為である。他の人の目に映る自分をできるだけ素敵な自分にしようとする。この他人についての意識こそが自意識である。自分を自分として意識するということは他人と自分を区別することです。他人からどう見られるかということを気にしなくなれば、自意識はなくなると考えられます。このあたりから考えてみます。



免疫系・・最近、自分が自分であることを決めるのは脳ではなく、免疫系であると言われている。非自己、自己ではない異物を識別して自己の一体性を守る。自己は物体ではなく状態であると考える。自分は確固とした独立したものではなく他者との関係を通して把握されている。他人から判断され、他人にすかれていたり、嫌われていたりすることを通して君たちは自分のイメージを持つものだ。他人にどう思われるかをいつも気にして、他人との関係の中で自分を作っているのだ。さらに私(自己)の曖昧化現象が起こっているとも言われている。自分と他者の境界の識別が曖昧なものに変化しているのである。それでは自他の境界をはっきりさせるのにはどうすればいいのか。異質な他者との交流をはかることを通して他者を発見しようとする。他者を発見することが自分の位置を発見することになる。社会性を持った自分を他者との関係で見つめ直す必要がある。その過程で、だんだんと自分を作っていく、それが人間なのかも知れない。


日本人の自我・・日本人の自我は、孤立的なものではなく他者との交流を通して形成されると言われている。相互依存・相互信頼を基本とする。日本人の自我は、間人主義・柔らかな自我と呼ばれることもある。「わたし、おれ、自分」君たちも他者との関係において一人称を使い分けているはずであり、このことからも明らかに相互関係を機軸にしていることがわかる。このことは、他者のあり方から自分のあり方を検討する内的コミュニケーションを発達させてもいる。校則から逃れたい、拒否したい、そう言いつつ、別の制服に着替える。茶髪・短いスカートこれらはユニフォームを着替えたにすぎないのだ。ところで自我とは、本能に変わる行動の規範のことである。近代的自我は「我思う故に我有り」から始まり、ルネッサンス期に封建的支配からの離脱をめざし自由で独立した自我として生まれたものだ。しかしながら時代が下るに従って、この自我は他者の存在を無視する自己中心的なものに変化してきた。エゴイズムである。

自閉化する自我・・自分の世界に他者の身体・表情・話し声が現れてくることが自分の望まないものであったりすると脅威として感じる人もいる。これが不安を生み、自閉化に向かう人が多い。望まない他者を自分の世界から抹消し、限られた領域の内部に自己を囲い込もうとする行為が自閉化であると言えよう。この自閉化を資本主義が支え、さらに加速していると言われる。

資本主義の変質のまとめ
 1 生産関係の変質 
みんな違って良い、世界の一つだけの花なんだ。これは実に巧みに演出された商品経済の魔法だと思う。私の小さな頃、筆箱は「像が乗っても壊れない」筆箱が人気で、クラスのほとんどが同じ筆箱を持っていた。今はどうだろう、クラス全員がそれぞれ違う筆箱を持っているのではないか。他者と違う製品を選び取ることが、自己表現であり、自己実現となる。母親の編んでくれたセーターを着ている生徒、破れを補修してある靴下をはいている生徒など、ほとんどいない。同じものを所有している連帯感など必要ない。今の若者は、こんな生活を望んでいる、老後は、こんな生活が必要となる、この車に乗ることが人生の幸福を生み出すのだ、何度も何度もCMが流れてくる。サラリーマンは定住してくれると困る、いつでも違う地域に移動できる生活スタイルが企業経営としてはありがたい。いつまでも同じ車に乗っていては困る、買い換えてもらいたい。流通こそが経済の発展に不可欠となる。商品化された情報・イメージを扱うサービス業の発展は流動する市場に直結されており、流動に見合う教育が要求され、多数の人々の孤立的な存在を社会として許容せざるを得ない。生産力の余剰・新たな労働の形態が発生する。

  2 商品関係の広がり 
商品のイメージは社会のすみずみにまで浸透。自我の形成は家庭空間の内部の個室で作られると考えられる。現在はその空間内部にまで情報機器を媒介にして多様な商品イメージが流れ込んでいる。それらを取捨選択する形でしかアイデンティテイが形成できないのが現代の若者である。

 

 


 

 

自閉化の限界・・自閉化された自我であっても労働力として商品化されざるを得ない。そのためには自分の肉体を外部に持ち出さざるを得ない。もし、自閉化を継続させるとしたら在宅勤務・在宅学習の形が導入されざるを得ないだろうし、そういう形が模索され始めている。がしかし、自閉化の広がりはくい止めるべきであり、このままでは学校や社会に参加することを拒否する若者が増える可能性がある。疫病の流行による在宅勤務、リモートワークや 家庭内での学習は、その実体を明らかにし始めた。やはり人々は生の声、動物としての触れあいを求めざるをえない存在であることがはっきりした。
他人の目を全く気にしなくなっても自意識が残っているかもしれない。自分の内部に、まるで別の何かの目、人ではない他人を感じたことはないだろうか

拡張する身体・・道具を使用しはじめた時から、人間は自己の身体を拡張し行動し始めた。情報化社会の成立に伴ってさらに、その拡張は著しいものとなっている。君たちも自己の内部に複数の、いや数え切れないほどの自分が存在していることを感じているだろう。その場その場で自分を演じて生きているのだ。自閉化している自己をどこかに隠し、もう一人の自分の仮面をかぶり、日々、生活しているのが君たちなのだ。テレビ、ラジオ、インターネット等情報機器を通して、君たちの意識は全世界に拡張されるとともに、夥しい数の自分を内部に囲い込んでいる。どこまでが自己なのかわからなくなり、この点においても自己の曖昧化が生まれているとも言えよう。自分の身体が最初の他人であり、次にそれを拡大する形で他人なるものが他者として現れてくる。

2022年02月02日

現代文語彙3

小学校、中学校、高校そして東大
自分という人間を上手に演じようとするなら、いろいろと努力する必要がある。それなりに家庭環境や能力に恵まれていると何とか東大を目指して頑張ろうとする。ギリギリで合格した途端に不合格の可能性を忘れはて、私立大学は言うに及ばず、そのほかの国公立大学の輩を差別し、ずうっと神童であったかのように演技する。東大卒業であれば、深い知識や思想を持っているかのように見える自分の姿は、ブランド力のある存在として自己満足できるものとなる。合格したら恩師であろうが母校であろうが、過去の遺物にすぎなくなる。

 

 



さらに前回も述べたように、私たちは自分は何者なのかをいつも考えてしまう癖を持っている。どうしてもなぜ生きているのか、何のために生きているのかを考えてしまう。世界と自分はどんな関係があるのか、考える、調べる、その課程で知識や思想が生まれてくる。そんな人間の長い期間にわたる営為が膨大な文献となり、経験となり、人類は遺産を積み上げてきた。そのいわば不必要と思えるほどの過剰な知識を体系化し、わかりやすいように再構成し、次世代に移管するために、もっともらしく見えるシステムを構築してきた。その過程で、思想そのものは、先人の生き方の血や肉としての思想ではなく、単に受験のための武器、道具に変質しているかもしれないが敬意は払うべきである。

小さな大人・・子供という概念は昔からあったものではない。近代の成立とともにもたらされたものである。近代以前には子供という時代は存在していない。小さい大人と見なされていた。
自分の用が自分で足せるようになると若い大人と見なされた。仕事も遊びも大人と一緒にしていた。また、遊びと労働は、かつてはよく似たものであったのが、近代になり、資本主義の発展とともに、分割されることになる。同時に子供と大人の分割がはかられた。子供を大人の前段階としてとらえようとする動きがあらわれた。大人の社会は秩序社会であり、子供は反秩序を代表するものと考えられ、教育により秩序社会に組み込もうとするものとして学校が誕生した。
現代は大人の社会が行き詰まりの様相を呈し、子供の世界をとらえ直そうという動きが始まっている。何物にもとらわれないみずみずしい感受性を評価し、大人の世界に取り込もうとしている。

学校教育・・いじめ、体罰、校内暴力、偏差値等の問題の基底には何があるのか。資本主義の要請に応じて作られた学校であるにも関わらず、社会主義的な要素を取り込んだが故の破綻かもしれない。国家を発展させるような社会性を備えた健全な大人、秩序を遵守するような大人を育てるためには、同じ教科書、同じ髪型、服装が必要とされる。平等に扱われることは、価値の画一化を生み出す。努力次第で誰でも上層にはい上がれるわけで、努力することは人間としての当然の行為と見なされるわけだ。それでも、戦後まもないころの教員は、戦争の原因の一つである集団主義を、画一主義を忌避していたがために、生徒の個性を重視しようとの動きに出た。社会に対して批判の眼を向けることの出来る生徒を育てようとした。その結果、学生運動の嵐が全国を吹き荒れることになった。あわてた国家は今度は、極端なまでの管理主義を打ちだした。生徒の生活空間は、資本主義がその思考や感性にまで影響を及ぼし「消費と快楽」と「個性の重視」を旨としている。学校空間だけが「禁欲と勤勉」と「集団美」を訴えても生徒は矛盾する情報の中でアンビバレンな状況に苦しむだけなのだ。さらに「個性重視の教育」なる画一的な目標までを掲げて、このあと日本の学校はどうなる・・。能力別クラス、エリート教育の陰で苦しむ欧米の生徒と同じ道を歩むことになるのだろうか。

あそび・・何かに奉仕するのではなく緊張と喜びの感情を伴った非日常的な行為そのものが遊びである。自発的なルールに基づく自由な活動である。かくれんぼうの本質は、空白の広がりの中に放り出される孤独の経験、世界が変貌する砂漠経験であり、本人が気づかない形で経験の胎盤が形成され、人生の予行演習をしていることになる。労働を基本とする大人の社会においても、演劇、祝祭という形で「あそび」を展開し、日常性の殻をうち破るダイナミズムが形成されている。

 

 


学歴社会・・日本は脱亜入欧政策をとり、ヨーロッパに追いつき、追い越そうとしてきた。学問をした人間は高貴な人間、金持ちになれるという福沢諭吉氏の考え方と、戦後の民主主義の考え方とが交錯するところに学歴社会が生み出された。学問を軽視することではなく、学歴だけで人間を評価する考え方を改めるべきだろう。がしかし、学歴社会はしぶとく、ちょっとやそっとでは変わらないと思われる。昨今のテレビ番組では、やたら東大卒がもてはやされている。東大卒にあらずば、人にあらず、とめてくれるな、おっかさん。かつての学生運動の時代の亡霊が蘇ったのか。

青年期・・子供と大人の分割されたことの結果として考え出された歴史的所産である。大人としての社会的義務を果たさなくてもいいモラトリアムの時期と呼ばれる。かつての青年たちは早く一人前になりたいと願っていた。中途半端に扱われる不満、禁欲状態を乗り越えて強い自我が形成されたし、内面の豊かさを生み出し、人格を形成し、さらには人間の学習、創造力を発展させ、支えたのは、その願いであった。
現代の若者はかつての禁欲状態を経験していない。好きなものは簡単に手に入れてきた世代にとって、社会的責任を果たさなくてもよい青年期は居心地のいいゆりかごのようなものであり、この猶予期間にいつまでもとどまろうとする青年が増えている。こうした青年たちに自我が十分形成されないことは言うに及ばず、その存在が社会の活力そのものも減退させる可能性を持っていると思われる。

 


2022年02月02日

現代文語彙4

家族について
家族というものが、どんなものかということに関して、私たちの社会において暗黙の共通の理解があるようです。その共通の理解事項は、長い時間のなかで組み立てられ、いわば物語として語り継がれています。家族はその物語をさまざまな場面で確認し合って生きています。誕生日を家族で祝うとき、生きている実感を感じた諸君もいるでしょう。こういう家族の物語を否定する人は、家族のことを考えていない、愛情がわからない人間だといって非難もされます。家族の物語は、実に上手にほんとうらしく作り上げられていて 、私たち自身もそうありたいと願っていると信じて疑わないストーリーです。長い歴史を通して、社会がつくり出したこの家族のイメージに沿って生きなければ、振る舞わなければ、よそ者として排除されます。

 

 お前は頭がおかしいのかと言われそうですが、実は集団が社会を形成し、リフレッシュしていくための構造として家族という物語を必要とし作り出したと考えてみてください。社会の秩序を維持していくための必要不可欠な装置として、家族という物語が作り出された、そうも考えられるのです。家族間の愛情、人間愛、この言葉も人類が誕生したときから存在していると私たちは考えています。人間という概念、言葉そのものはヨーロッパにおいて、たかだか150年ほど前に生まれたものだと指摘するフランスの哲学者がいます。愛、人間愛、この言葉も160年ほど前に、産業革命が終わり、市場社会が生まれると同時に生まれた新しい概念に過ぎないと言ったら諸君は驚くでしょうか。もちろん男女が求め合うこと、母が我が子に授乳する行為は、ずうっと存在していました。これらは動物世界も同じです。周りの世界をあるがままに見つめ、思った通りに解釈し、生きてきました。動物も人間も植物も対等の存在として受け止めていたと思われます。産業革命後、人間は考えたのです。我々は動物よりも優れた存在ではないのか、我々の生き方は本当に教会の神父様が言うように、自由に生きているように見えても、操られているに過ぎないのか。いや、そんなことはない、進歩と発展、それを支える社会の秩序、これこそが目指すべきものである。このような意識の変化を背景にして、家族という物語が、愛情という概念が作り出された、そう考えることもできます。ちいさな大人として、労働力として扱われていた「こども」も保護すべき存在に変わり学校が生み出されます。


家族の変遷・・第一次産業の時代には家族は生産の場としての家であり米・野菜・味噌・醤油に至るまでを家族単位で生産していた。家族の構成員が全員役割を持っており、この形態が制度的にも保証されていた。家制度がそれであり、家長は絶対権限(結婚・職業の選択にまで及んでいた。長男のみの特権)を有していた。ところが明治時代、資本主義が導入され、発展していく過程の中で多くの工場労働者が都会で必要とされるようになった。次男・三男の都会への流入・消費の場所としての家庭を都会に営むこととなり、家庭は生産の場ではなくなる。生活に必要なものはすべてお金を払って手に入れることとなる。家制度は現実の生活のスタイルとずれはじめる。戸籍の上では君たちは、保護者の家に属しているけれど、将来は独立して都市で非定住の消費生活を送るはずだ。都市にとどまって小家族を形成して、お盆や正月に帰省するだけといった生活になる。家制度のもとでは子供も労働者であり、家での役割は重要であったが、現在では都市生活者の価値基準たる学歴の有無を獲得するための役割を担う存在に変化している。親は子供の教育に熱心にならざるを得ないし、塾等の存在も欠かせないものになっている。現在では大家族、家制度は産業構造の変遷とともに崩壊しつつある。


日本型近代家族・・明治になって封建制度からの解放とともに近代家族が日本にも誕生したといわれるが、第二次世界大戦が終了するまでは上記に述べた家族制度が脈々と続いていたと考えられる。基本的人権が明言され、個人の意志が尊重されることになり、家族の重みから解放されたと思われるからだ。しかし、民法では戸主権は削除されているが依然として戸籍制度は残っている。つまり戸籍の単位としての大家族の枠組みだけは今も残っているわけだ。夫婦と子供は同じ姓を名乗るわけで、戸籍の上で家族という集団を基本と考え尊重し、一方で個人の人権や意志を尊重する、このことは矛盾を生み、ひずみが出ることになる。1884年、民法はさらに個人を認める制度も追加した、すなわち結婚した子供は新たな戸籍を作ることが可能になったのである。家庭という枠組みと個人という枠組みのいわば二重の縛りが存在することになったのである。家族の中の個人、個人のための家族、おそらくどちらかが中身のない空洞化したものに変化していくことだろう。個人を優先すれば夫婦別姓になっていく、この時、家庭とは何なのだろうか、名前だけの形だけのものになりはしないのか。


父性原理と母性原理・・戦前までの日本は母性原理社会と呼ばれていた。母性原理は場所の原理であり、その場所、集団、家族に属しているかいないかが、個人にとって決定的な要因になる。子供を分け隔てしない両親のように融和がその集団では何より重んじられる。これに対して、父性原理は個人を重んじる原理であり、個人が何を望んでいるか、個人がどう成長するかに重きをおく、成績の振るわない生徒を徹底的に教育し、出来のよい子は才能をどんどん伸ばそうとする力が働くこととなる。どちらの原理が優れているかはわからないが、問題となるのは私たちが、いや学校が安易に母性原理社会の中に父性原理を導入したことだろう。現在のさまざまな混乱はすべてこの点に原因があるように思う。同じ制服、同じ教科書で平等を強調しながら、成績評価となると順番を付け、おちこぼれを生産していく。この二つの原理をどう調整していくかが今後の学校の課題だろう。

社会的に作られた性差(ジェンダー)・・女性を育児と家事をするものとして家の中におしこめ、男性を労働領域におしこめる形での性差別にもとづき展開、発展してきた現代社会。かつての家族制度の有していた強さは家庭にはなく、愛情や情緒といったもろくて壊れやすいものに支えられているにしかすぎないのが現代の家庭であると言ってよいだろう。政府や会社は家族手当、配偶者控除等を整備して今なお、女性を家庭領域に封じ込めようとの努力を続けている。結婚したら女性は家庭にという考え方は、あいかわらず根強い。キャリヤウーマンと呼ばれる女性たちが結婚しないで社会に留まろうとするのは当然なのだ。女性の地位が会社の中ではまだ十分認められているとは言い難いということもよく聞く。出席番号で男がはじめで女性が後であること等に見られる現象も含め、社会的な性差を解消することが必要とされている。しかしながら、肉体的な差異は厳然と存在している。その違いを認めつつ、社会的な差別をなくす努力がなされねばなるまい。

2022年02月02日

現代文語彙5

空間を考える
人間にとって空間とは・・今、君の目の前には机があり、先生がいて、黒板があってというように様々なものが広がっているだろう。それらと君の関係は、位置の関係や、君がそれらを認めるという認知関係だけだろうか。そういう事実の関係だけでなく、君にとって、君の周りに存在しているものは、ひとつひとつが君の生きると言うことに関して何らかの意味をもっているのではないか。生活している空間は、この意味で意味に満ちているだけでなく、空間そのものに意味が有ると言えよう。人間は心の中で、この意味空間を生き、思考し、行動しているといえるのだ。行動しているとは、空間を自分のものにしていることであり、行動することによって主体的な空間を作っているのだ。君たちから見ればぐちゃぐちゃに見える私の机の上も、私にとっては一つ一つが意味を形成している意味空間なのだ。意味空間は、体を直接ふれることのできる事物の存在する空間だけでなく、闇の空間、夢の空間などもあるわけで、人間はこうした空間すら生きることができる。

 


遠い、近い空間・・テレビ等の発達により密度と濃度の均質な空間が増えていると言われている。新聞やテレビを通して知る空間が、その代表的な空間だろう。インターネットをやったことがある人なら世界の全く行ったことのない場所での出来事を、その出来事の起こっている国の人と、同じ時間に、同じものを目の前で見ることを経験したことがあるだろう。がリアリティのない、現実味のない擬似的な経験であることも同時にわかってほしい。現代はこういったバーチャルな擬似的な経験がどんどん増えている。本当に経験したかのように思いこんでいるだろうが、嘘の経験にすぎないのだ。日々の生活基盤である自分の空間が縮小し、行動半径も小さいものでありながら、空間の意識だけは無限に広がり続けているのだ。真の経験しか語り得ないものは受け止めてはいないのだ。身近なこと、近いところのものに対する方が、遠いところのものより関心を持つはずなのに、地球環境を守れと叫んでいる生徒が、教室内で平気でゴミをまき散らすという例に見られるように、この遠近法の逆転とでも言える現象が起きている。国際コミュニケーションを研究する学生が、隣の部屋の住人と一度も話したことがないという笑い話まである。

 

 


晴れと褻・・はれの空間・赤白の幕で覆われた空間や時間(将来の幸運をいのる場・共同体の神と出会う場所という定義)黒白の幕で覆われた空間(お葬式・死者の魂がまだその辺を浮遊している場所であるとの定義)
けの空間・儀式の終了とともに日常的な空間、時間に戻される。
同じ空間でありながら、思いでのある個人にとっては「はれ」の場であり、関係ない人にとっては「け」の空間である場合もある。

2022年02月02日

現代文語彙6

 

 

時間を考える
時間の本質・・デジタル時計(正確で一目で時刻が読みとれる)・アナログ時計(まだどれだけ時間が残されているか、どれだけ時間が過ぎたのかを扇形の広がりの中で読みとっている)
アナログ時計の空間の広がりの中で、私たち生命の動きを感じているのだろう。アナログの方が何となくいいと感じる感覚は、人間的な時間にふさわしいからかも知れない。空間性をいわば排除したデジタル時計がモノとしての時間を我々に教えているとすれば、アナログはコトとしての時間を示していると言えるだろう。

 


時間の価値・・進歩、発展することを何よりも望む資本主義的な考え方にとっては、よけいな時間は無駄としか考えません。マイナスの価値を与えられ、一分、一秒でも仕事を仕上げる時間を切りつめようとします。遅刻などは罪悪以外の何物でもありません。ところが、農業に従事している人々にとっては時間はプラスの価値観を持つものです。生命現象と深く結びついた時間は、切りつめるべきものではありません。私たち人間も生命体であるかぎり、時間を切りつめるべきではないと考えられます。ところが時間を有効に活用しようとして、現在を将来の自分のための手段としてしか使っていません。限りある寿命でしかないことを忘れ、現在を充実することなく生きている、現在を空洞化していると言っていいでしょう。受験勉強がこの意味で君たちにむなしさを感じさせるのは当然なのです。がしかしながら、将来を一切考えず、その日暮らしの楽しい生活を送ればいいのか、そうではないでしょう。現在を充実させるような生き方を普段の生活の中に取り込めばいいのです。小学校の時、粘土細工をしましたね、遠足で陶芸をした方もおられるでしょう、料理の好きな方もいると思います。これらの過程の中であなたは主体的に行動しています。作成に至るまでの現在の時間、それ自体が目的になっているのです。物が出来上がるまでの時間、この時間は切りつめられません。生きている時間なのです。キャンプが好きで、旅行が好きな人は、実は生きている時間を取り戻したいのかもしれません。

時間的な秩序について・・高速な乗り物、通信技術により資本主義は空間を克服したと言える。さまざまな生産において、単位時間あたりの生産性を高める努力は現在も続けられている。その結果、君たちが働く時点における労働時間は、年間千八百時間程度になるらしい。睡眠時間、食事の時間等抜いたとして君たちの手元に残る自由時間は年間四千時間程度になろう。そうすると君たちは人生の過ごし方として、この四千時間をどうするかを考えざるを得なくなる。労働時間を切りつめた上での自由時間であるが故に、この四千時間をどの程度に価値づけるかという動きも起こってこよう。働くことが美徳であると教え込まれた君たちは、無理にでも何かをしようとするだろう。何もしない場合、経済的に現代社会が、停滞してくることも考えられ得る。したがって時間に縛られない労働形態の形が模索され始めている。フレックス時間の導入やSOHO在宅勤務の形態などがそれであると思われる。時間に縛られない自由な人間の発想こそが現代社会の閉塞性をうち破る鍵かも知れない。


2022年02月02日

現代文語彙7

言葉について考えよう
言葉と物・・私たちは言葉によって自分の周囲にあるものを名付け、名付けることによって世界を理解していく。したがって、ある物について名前を獲得することが、その存在に対する認識を獲得したことになる。すべての物に名前が与えられ、秩序づけられ整理されることによって、世界の体系化がなされると言ってもいいだろう。物理的に物が存在していたとしても、名前が与えられないうちは、私たちにとって存在しないのと同じなのだ。

 

 

 

言葉と経験・・私たちは、言葉によって自分の周りの世界を把握している。世界のあらゆる物に言葉のラベルを貼り付け、概念化してきた。一方、言葉を使用すれば、自由とか平和といった非実在の概念すら作ることは可能である。実在と直接、私たちは関係していると思っているが実は言葉の網の目を通して、そう感じているだけで、実際には実在と直接関わり合うことは少ないのかも知れない。言葉によって世界をつかもうとする行為をシンボル経験と言うが、シンボルとは言葉のことだ。君たちが現代社会の教科書で、この世の中がわかったと思っても、それは観念的な理解にすぎず、頭の中だけでわかったつもりになったに過ぎない。観念的な理解を真の知識にするためには、体験して確認すること、自分の目や耳などの感覚器官を通して確認することが大切かと思う。テレビの中での恋愛をみて、恋愛なんてとわかったつもりになるのではなく自分の目や耳を通して、肌を通して確認することが、ますます重要な時代になっていると思われる。

言葉と文化・・文化と言葉は密接なつながりを持っている。考えるとき、日本語で考えているわけだが、日本語は既存の秩序に従ったある体系を言葉の内部に持っており、その体系に沿ってしか私たちはものを考えられないのだ。その体系は、日本の文化、伝統に基づいて作られているので、当然、日本的な、日本人としてのものの見方しか出来ないのだ。世界には虹が七色ではないと思っている国の方が多いことをご存じだろうか。フランス人にとっては蝶も蛾も同じパピヨンなのだ。塩をとってくれは、テイクミーではなくパスミーであり、テイクを使えば泥棒だろう。言語は、同じコトを違う言語で表現しているわけではなく、同じ表現に思えても違う内容であると考えた方がいいと思われる。違いを認識した上で異文化理解をしていかなければならない。

文化・・文化はその文化圏で育った人々にひとつの固定的なものの見方を強制することは上記の例でわかったと思う。言語や宗教の違いが戦争や紛争を引き起こすことも多い。したがって文化の違いが戦争を引き起こしているとも言えるのだ。自由にものを考え、自由にしゃべっていると思っているだろうが、それは思いこみにすぎないことを知ってほしい。

2022年02月02日

現代文語彙8

情報化社会の基本のおさらい
情報化社会とは情報が、農業、工業製品と同じ価値を持つ社会のことである。

 

 

メディアと人間・・媒介物でしか無いはずのテレビやスマホが君たちを変化させている。テレビは私の幼い頃には電気屋さんか、一部の金持ちの家にしかなかった。特殊な場所に存在する、特別な世界を映し出す機械であった。メディアに登場する人は、人々の関心と注目を浴びる人であり、そこに映し出される世界は、スターや有名人のような手の届かないところにすむ人々の特別な場所だったのだ。ところが現在のワイドショーが映し出す映像は、どこかで私たちの日常とつながっている世界である。そこに描かれる世界はかつてのような異世界ではなく、その地を訪れようとする人、犯罪の起こった土地を見物に行く人が多いやに聞く。体ごと、メディアの描く世界に自分も参加したいと思うのだろう。観光地の様相すら呈しているのだ。ニュース報道の側面を持つ故にリアリティを醸し出すことに成功したワイドショーやYouTubeは、情報を見せ物として創造し作り上げることで視聴者に支持されるに至っている。現実そのものではなく、擬似的な物語をつむぎ出す現代の「かたりべ」なのだ。私たちは「かたりべ」達によって現実を探し出すゲームに誘い込まれているのだ。メディアの描く世界にしか、現実を探る手段がなくなった時、私たちはどうなってしまうのだろうか。

間(ま)について・・時間的な間・空間的な間・状況としての間(間に合う・間が悪い・間が持たない・間をおく)高度情報化社会においては、情報が瞬時に伝わりすぎる故に、間がもたらす「ゆとり」が無くなっている。あまりに早く、大量の情報が流れ込んでくる故に君たちには、それらをゆっくり検討している暇が与えられていないのだ。この間を、取り戻すことが今の君たちには必要だろう。手始めにテレビのスイッチを切ったらどうだろうか。新聞や小説を手にするがいい。

 

 

 

サイバースペースについて・・インターネットを利用して品物を購入したことがおありだろうか。サイバービジネスは今や飛躍的に増大している。犯罪やトラブルも起こっていることはご存じだろう。新しい分野なので環境整備がなかなか追いつかない。パーソナルアイデンティティという言葉を知っているだろうか。自己確認が出来ず、自分は何であるかを知りたいと、スマホを終日眺めつつ、自分探しをしている人も多いことだろうと思う。携帯電話、パソコンを通しての通信など一対一を基本とするパーソナルメディアが普及し、メールのやりとりに代表される電子コミュニケーションは盛んに行われている。顔が見えない電子コミュニケーションは、社会的身分、性別、年齢を無視したコミュニケーションであり、空間的に相手の顔を見ることなく行われている。手紙や電話と違い、即時性と会話の直接性によって妙にリアリティのある深い会話が可能になるのだ。仮想的な空間には位置を示す地図はなく、仮想的な人間関係はどんどん深まっていく。可能性としては地球全体が一つの村として成立するかもしれないとは思っている。メディアにより人間の身体はとどまることなく拡張し続けているとも言えよう。個人のネットワークを中心とするこの電子コミュニティは今後どのような発展を続けていくのか、続けるべきなのか。発信者・受信者が存在すると同時に、そのどちらにもなれない個人も存在するに違いない。この電子ネットワークは新たな社会の階層化を生み出す可能性すら孕んでいるように思われる。

バーチャルリアリティ・・仮想現実は私たちに、新しい次元で現実を喪失させていると言えよう。ファミコンの自動車レースの、あるいは野球ゲームのフェンスに広告を出すスポンサーの存在を知っているだろうか。彼らはテレビ以上に広告媒体としての価値をゲームのフェンスに認めているのだ。いわば「無から有が生まれている」のだ。仮想現実は、人間の経験の拡大化をもたらすものではあるが、誰かによって生み出された客体化されたものに過ぎないことを認識しておく必要がある。

2022年02月02日

現代文語彙9

環境問題の原点

 

 


伝統的な自然観・・明治になって初めて日本ではネーチャーの訳語として、自然という言葉が使われるようになった。ヨーロッパの人々は、人間を拒もうとする自然と闘い、厳しい自然を克服し現代の繁栄を築きあげてきた。自然は征服すべき対象なのだ。人間にとって好ましい形に作りかえようとする。彼らは石を用いて家をつくり続けてきたが、日本は木によって家を作ってきた。暖かみのある、神話をその中に含んだ自然を敬うとともに、私たちは木の家に住んでいる。被害をもたらす自然を征服するのではなく、お供え物をしてひたすらその怒りのおさまるのを待ったのだ。火山は山の神の怒りであり、身の行いを慎むことで、鎮めねばならない怒りなのだ。自然と一体化した生き方をとっていた日本に、自然を対象化することで成立した科学的な学問が発展しなかったのは当然かも知れない。明治になるとともに、主体と客体という概念が導入され、自然に対する見方も変わってきた。このことが環境破壊を生んできたとも言えるだろう。


科学的な見方・・上記に述べた自然を人間の都合のいい形態に変えるのに大きな役割を果たしてきたのは科学技術である。私たちは科学技術のおかげで現在の豊かな生活を営んでいるのだ。しかし、科学技術は、資本主義の要請を受け、差異を基本とする必要のない技術までも生み出し始めている。核兵器、バイオテクノロジーに代表される技術のあり方を再確認する必要があるだろう。また、これらの技術が人間のコントロール下から逸脱する可能性にも目を向ける必要がある。

経済中心の考え方・・好んで環境破壊をしている人などいるはずはない。多くの人は自分の家を欲しがる。山林や野原を切り開いて住宅地に変えていく。過疎地である山村は何とか生き延びようと産業を誘致する。観光道路・ゴルフ場が出来るに伴い、雇用が増え、村の経済が潤う。このことは現在、発展途上国と呼ばれる国々で起こっている現象でもあるのだ。

相対的自然観・・何を自然と呼ぶか、自然と言う言葉から、子供の時、遊びに行った近くの山を私は思い浮かべる。私はこの原体験を元にして自然を考えるが、すでにその山には様々な人為が加わっていた。人間の手が加わらない自然、そんなものが存在しているのだろうか。人為の程度の違いでしかないのだ。自然開発か、自然破壊かは人によって判断が違う。間伐材を使う割り箸は自然、山林を保護しているという意見があることをご存じだろうか。利害関係だけでなく、自然観の違いからの対立もあることを知ってほしい。誰もが納得できる客観的な基準は存在しているのだろうか。人間の行為が、生態系を破壊しているかいないかが一つの基準にはなると思われる。どれほど生態系が守られているかが判断基準になるだろう。

 


環境リスク・・住居環境・労働環境・教育環境などさまざまなものに取り囲まれて君たちは生きている。自然環境についてだけ考えてみよう。森林が破壊され、砂漠化が進み、オゾン層の破壊による温暖化が話題になっている。完全循環型の社会が出来れば環境問題は解決されるが、現在までの技術ではなかなか難しい。ゴミゼロシステムが出来るのはまだだいぶ先のことだろう。当面の対策としては、個々人が行政任せにせず、自分から何かを始めることが大切だろう。
ところで、ダイオキシンの排出濃度などは、どの施設でも基準はクリアしているそうだ。しかしながらダイオキシンは一度体内に入れば排出されず、長期間にわたって摂取すれば危険な状態になるらしい。ほんの少量であっても、かぎりなく灰色に近い存在として、反対する運動はあちらこちらで起こっている。あたらしい基準として「絶対困る危険性」をリスクとして定量的に決定していこうとする動きがある。ガンの発生率を基準にして定量的に決めていこうとする動きである。発ガンリスクを、環境リスクとして考えていこうというわけである。

2022年02月02日

現代文語彙10

君が今、住んでいる日本
言うまでもなく、日々コロナという疫病と闘う日々が続いている。恐らくは、学力や能力、考え方に差異のある世代になることは間違いなく、大学卒業後、学生運動世代ならぬ「コロナ闘争世代」とでも呼ばれるかも知れない。

 


ボーダーレス時代・・区別の曖昧化の原因はさまざまに考えられる。大人と子供の区別が難しいマンチャイルドと呼ばれる人のタイプをご存じだろうか。他者をほとんど視野に入れない子供っぽい、自己中心的な人間が君の周りにいないだろうか。資本主義の発展がもたらした個人化社会の発展がこの種の人間を生み出したと考えられる。彼らは自分の世界を他者に語ることを何よりも喜びとしている。自分が主人公であり、自分だけの世界に陶酔している、いわばオタク的な自己完結型のライフスタイルを持つ人間が増えているという。電車の中で他者の視線を気にすることなく化粧を始める若者や漫画雑誌を見ながらヘラヘラ笑っている大人を見るとゾッとするのは私だけだろうか。どうすればこうした事態をくい止められるのか。文字離れ・活字離れがその原因の一つかも知れない。こうした能力が、センター試験の影響もあってか、急速に君たちの中で衰えているようだ。読むこと、書くことがきちんと出来てこそ、自己を構成し、自分を取り巻く世界を理解することが出来ると考えている。読むこと、書くことが出来てこそ、理性や知性を育てることが出来る。君たちは、私たち老人よりも、感性は優れている。若者のビジュアルな感覚、音楽に対する敏感さ等に驚かされることもしばしばだ。しかしながら理性が無さすぎる。理性と感性のバランスこそ、今の君たちに必要なものだと思う。

 

 

高齢化社会とは・・我が国の総人口は、令和元(2019)年10月1日現在、1億2,617万人となっている。65歳以上人口は、3,589万人となり、総人口に占める割合(高齢化率)も28.4%となった。65歳以上人口を男女別に見ると、男性は1,560万人、女性は2,029万人で、性比(女性人口100人に対する男性人口)は76.9であり、男性対女性の比は約3対4となっている。65歳以上人口のうち、「65~74歳人口」は1,740万人(男性831万人、女性908万人)で総人口に占める割合は13.8%となっている。また、「75歳以上人口」は1,849万人(男性729万人、女性1,120万人)で、総人口に占める割合は14.7%であり、65~74歳人口を上回っている。約3人に一人が高齢者になるのだ。少子社会といわれ、子供を少なく産んで大切に育てるという風潮も無視できない現象だ。生産年齢人口と呼ばれる15歳から64歳までの人口が2015年には埼玉・滋賀・沖縄以外では減少し始めた。これは高齢化を支える人口が減少することを意味している。君たち一人一人に対する負担が大きくなるということなのだ。増税されると君たちの働く意欲も薄れるだろう。少子化社会では、労働力が減り、生産力が落ちる、経済力が弱まる結果になるのだ。

女性の社会進出・・なぜ出生率が低下したのか。女性が高学歴化していることと地位が向上していることも原因の一つであろう。キャリアウーマンが子供を産めない理由は、核家族化、託児所の少なさ、子供を産むとやめさせようとする会社の存在等が考えられる。かつての大家族制度で見られた、働きながら子供を産んで育てる制度にかわるシステムが十分に整っていないのだ。一度、出産のために休職しても、子育ての後に復職できる制度が教員等は認められている。このような制度を広めるべきだろう。男性の育児への参加も奨励されねばなるまい。高校で家庭が男女必修になった理由がわかるだろう。今、家庭に眠っている女性が社会進出することで、もしかしたら高齢化社会は克服できるかも知れない。スウェーデンでは実際にこの方法を取り入れているやに聞く。

豊かな社会とは・・核家族と呼ばれる世帯が増加し、三世代程度が同居する大家族は少なくなっている。老人夫婦だけがすんでいる家、あるいは老人の一人暮らしさえ少なくない。かつて老人達の経験が家族の中で尊重され、生かされ、次の世代に引き継がれていったものだ。また、孫の面倒を見ることが老人の仕事であり、生き甲斐を老人に与えてもいたのだ。現代はそういった老人達の価値を認め活用するシステムが無くなり、老人は社会の隅に追いやられるようになってきている。現在は、病院の待合室は老人達の憩いの場、最後の砦になっている。テレビの内容も若者向けがほとんどであり、老人は楽しめないものになっている。
「豊かな社会の到来」を言い出したのはガルブレイスというアメリカの経済学者である。貧困と欠乏からは、日本をはじめとする先進諸国は確かに自由になったと思われる。貧困と欠如の克服を叫ぶマルクス主義等の理論はもはや役に立たないこととなり、ソビエトや中国が早々と方向転換しているのは周知の事実だろう。ガルブレイスは新しい社会理論の構築の必要性を示唆している。貧困と欠乏の克服のために犠牲にしてきたことがらの一つが環境破壊でもある。

戦後民主主義とは・・第二次大戦後の日本の政治状況のことを戦後民主主義と呼ぶ。すべての人の基本的人権が認められている社会が民主社会だろう。主権在民・基本的人権の尊重(個人主義の原理)そして平和主義がその中心にある。人間の欲望には際限がない、嫉妬深さも免れない。したがって平等を望んでいると言いながら、実は自分だけがより多く手に入れたい、より楽をしたい、誰もがそうではないだろうか。日本の戦後は、差別と平等のシーソーゲームだったという人がいる。他者の人権を否定する差別は、女性差別、部落差別、外国人差別、障害者差別、いじめ等、まだまだ残っている。飢餓からの脱出と復興という大きな目標のあった君たちの祖父母や父母の時代は、差別の欲望を自覚しないまま生きてきたのではないか、差別をしている暇がないほど忙しかったから、たまたま、いじめなど社会問題になりにくかったのではないかと思う。次第に身の回りに増えていく電化製品、車等に囲まれて豊かさを感じつつ生きてきたように思う。ところが君たちは生まれたときから、豊かな社会であり、与えられた平等を息苦しくさえ感じているようだ。受験戦争、とんでもない、実は受験というルールを通して君たちは平等に扱われているのだ。努力が正当に評価されるシステムなのだ。どんなに生活の苦しい人でも、努力すれば社会の上層にはい上がれるシステムなのだ。ほしいものを手に入れるために、かつての受験生は禁欲と勤勉を通して努力することが出来た。韓国や中国の学生が現在、一日三,四時間の睡眠で学習しているようにね。ところがほしい物をあらかた手に入れている君たちは、欲望のもう一方の端にある誰かを差別したいという気持ちが首をもたげているようだ。諸君は、誰かをいじめたことやいじめを知りながら、見て見ぬ振りをしたことがあるのではないか。

個人主義・・憲法の個人主義の精神が十分理解されていないことも「いじめ」の原因になっている。学校だけでなく、会社にもいじめはある。差別している人が、自分が差別していることに気づかない場合も多い。基本的人権を封建主義にどっぷりつかっていた日本人は理解できなかったのだ。各人の人権を尊重しあうという精神があれば「いじめ」など起こりようがないのだ。自らの権利を主張するために、他者の基本的人権を尊重するのは当然であり、義務なのだ。学習や部活動という義務を果たさず、権利ばかりを主張する生徒が多い(かも)。

日本型資本主義・・自由競争社会を旨とする資本主義社会では、能力のある者が勝利者であり、敗者は社会の隅に追いやられることとなる。負け続ける人間は集団を作り、そのうち必ず暴動が起こり、社会は転覆する。これがマルクスの予想した資本主義社会の末路であった。にもかかわらず資本主義は現在もなおその力を失わず発展を続けている。これは資本主義が社会主義的なシステム(学校制度とか家族的経営に基づく会社組織とか)を導入したからである。日本の資本主義は中国から理想的な共産主義国とまで呼ばれるほど成功をおさめている。終身雇用制度、年功序列制度などが日本の民主主義を支え、豊かな社会を生み出してきたと考えられる。平等意識が強く、階級意識が弱いのは、学校教育のなせるわざかもしれない。

2022年02月02日

現代文語彙11

日本を含めた世界
異文化理解・・二国間の貿易をしているだけなら国際社会などということは問題にならない。移民、国際人、地球人と呼ばれる人々の出現が問題をはっきりさせている。地球的規模の問題、多くの国々が協力しなければ解決できない問題が起こってきたことがこれらの人々の出現を促し始めたのだ。東西の冷戦の終焉と再開、インターネットによる国境を越えた交流、ユーロ通貨の採用などがこれらの問題を加速しているとも言えよう。モノやヒトの出入りが活発化していることは、最近の福井でも見られることであり、君たちも身近に感じているだろう。全く別の考え方をするヒト、違うものを食べるヒト、違う生活をしているヒトとの交流は難しい。フランス人はかわいいウサギを好んで食べ、イギリス人はタコを悪魔の使いとして食べない。異文化理解が出来ずに自国の考え方を相手に押しつけることから、様々な摩擦や事件が起こっている。外国人労働者をめぐる治安悪化の問題もその一つである。日本文化も外国人が増えれば影響を受けざるを得ないだろうし、文化の固有性の変質の可能性もある。

 

文化相対主義・・すべての風俗習慣は、その人の属する文化全体を考慮に入れて把握すべきだとする考え方です。すべての文化は固有の価値を持ち、犯すべからざるものであり、外部から批判することは出来ないとする立場です。

普遍主義とは・・極端な相対主義の立場に立てば異文化交流などできようはずはない。一夫多妻のイスラムの社会では女性を蔑視し、民主主義を否定する。観光目的で行っただけなのに、政治犯にされてしまった人を処刑することを批判しようものなら、内政干渉だと叱られる。アフリカの文化を尊重し、保護しようとしても、当のアフリカ人が先進諸国の文化に憧れ、その文化を取り入れてしまう。豊かになりたがっているのだ。これではまずい、全世界共通の考え方を、理念を定めるべきだと現在は考えられ始めている。それぞれの民族の慣習、文化について風土、背景など考慮に入れた上で批判や議論を大いにして基本的人権等のどの国でも共通した理念を集大成し、価値の体系を模索すべきであると言われている。

 

 

南北問題とは・・地球の北側に位置する経済的に豊かな国と、南に属する貧しい国々との関係における諸問題のことである。これは簡単に資本、技術を援助すればよいという問題ではない。

インドの乳牛をホルスタインなどの牛乳の生産性の高い牛に置き換えることはどんな意味があるのだろうか。果たしてインドは豊かになれるのだろうか。インドでは牛の排泄物を肥料として作物を育ててきたという歴史を持つ。インド原産の牛は牛乳の量は少ないが、その排泄物は十分肥料として使えるのだ。ところがホルスタインの排泄物には、有機肥料としての栄養分がほとんど残っていない。したがってインドの農民は高い北側の先進諸国の化学肥料をお金を出して買わざるを得なくなっているのだ。畜産と農業をひっくるめて考えた場合、少しもインドは豊かになっていないらしい。この例は、生き物が住む世界の多様性の意味を、私たちが見失っていることを教えているのではないだろうか。環境汚染を私たちが生み出してしまった本当の原因はこのことにあるのではないだろうか。

貿易摩擦・・日本製品がダンピングしているとアメリカから指摘されることがかつて多かったように思う。不当に安く売っているという批判だ。日本企業はコストダウンの努力の結果であると主張している。日本より安く売れるのは、アメリカには中間業者が少ないので、流通コストが少ないからだというのだ。日本に進出しようとしているアメリカ企業は、日本の流通機構の閉鎖性を攻撃している。国際競争力のない中小企業を保護する目的で国内にはさまざまな規制がもうけられている。その規制を緩和しろと日本政府に迫るアメリカに押し切られ、少しずつ規制は緩和されている。このことが、日本企業の倒産の引き金になっているし、価格破壊を生み出す一因となっている。アメリカに日本企業が工場を建て、現地の雇用を促進する動きも多い。安い労働力を求め中国や東南アジアに進出した企業も多いが、このことが国内産業の衰退化ももたらしている

2022年02月02日

現代文語彙12

2006年本試験1番の評論
「実生活であるところの『実』と呼ばれるものの根拠が疑われはじめた」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「実生活であるところの『実』と呼ばれるものの根拠が疑われはじめた」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」←これは問題文からの引用部分

難しいと感じる諸君、何が書いてあるのか、さっぱりわからん、そう思う諸君も多いに違いない。さてデジタル化から話を始め演劇の歴史まで話をすすめよう。

アナログ  デジタル
アナログテレビという「かつてのテレビ」をご存じだろうか。今は地デジ、BS、CSなどと広がっている。私のような年寄りにはついていくのが精一杯である。

 ところでこの「アナログ」とは何だろうか。アナログやデジタルという言葉は「量」からみた情報の分類の仕方を表している。私たちは様々な量に囲まれている。たこ焼きやリンゴの数のように、1個、2個・・と数えることができる量がある。これとは別に重さや長さのように測ればいくらでも細かく測れる量がある。(13.43㎝など)リンゴの数を離散量(デジタル量)、重さを連続量(アナログ量)と呼ぶ。離散量は、1か0か、二種類のビットから作られる組み合わせパターンに対応させることにより、コンピュータで処理が可能となる。


アナログとデジタルの身近な例として、時計を考えてみよう。アナログ時計と呼ばれる時計は、針によって時間を指し示し、デジタル時計は数値によって時間を表す。デジタル時計(正確で一目で時刻が読みとれる)・アナログ時計(まだどれだけ時間が残されているか、どれだけ時間が過ぎたのかを扇形の広がりの中で読みとっている)アナログ時計の空間の広がりの中で、私たちは、その時間、広がりの中での生命の動きを感じているのではないか。アナログの方が何となくいいと感じる感覚は、人間的な時間にふさわしいからかも知れない。空間性をいわば排除したデジタル時計がモノとしての時間を我々に教えているとすれば、アナログはコトとしての時間を示していると言えるだろう。
 
 さて、 3Kだ、4Kと呼ばれる地デジの画面はかなり精細で緻密で美しい。テレビが映し出す料理の美しさが、実際に見る料理よりももっと生々しく見えると言うことが起こりうる。カメラの機能が肉眼の持つ微細化と緻密化を超える可能性が出てきた。現実そのものと画像とが転倒すること、画像の方が本当よりも本当であり、本当が虚像のように思われる、そんな転倒が実際に起こっているのだ。

 テレビの化粧品のCMを見てみよう。売りたい商品の実体に、イメージを付け加えてその価値を高める。そのイメージは微細になり、緻密になっていく。美少女がその化粧品を使い、男たちのあこがれになっていく。その画像の方が、その商品の実体よりも、もっと実体らしくなっていく。諸君は画像によって付け加えられたイメージを実体と見なし、思わずその商品を手にする。この化粧品を使えば私も美しくなれる。なれるはずがない。ある日、女生徒たちの軍団が偶然テレビのタレントと街角で出会ったとする。彼女たちはこう言うだろう。「あらテレビで見るのとそっくりだわ」テレビのイメージが基準であり、本物は二次的な存在になっている。もしかすると諸君は本物のミカンを口にする前に、そのコピーとしてのオレンジジュースをまず口にしたのではないか。

 

 


 私たちの社会は高度に組織化され、合理化されている。生きていることの実感、日常生活の存在感は生産や労働を見る限り軽くなっている。車を使わずに、山に自らの足で額に汗して登ろうとする人間は、諸君の中に何人いるだろうか。また君たちは日々大量の情報のシャワーを浴びている。これらの情報は国あるいは国に反対する者、マスコミにより、一部の人の価値観によって作られたモノである。考えのみならず、君たちの感性すら、テレビの企業戦略のもと改変されているかも知れない。今年の秋の流行の色?そんなもの誰が決めたのだ。私たちは自ら考えたり、感じる暇すら与えられず、何かにせき立てられ操られ、主体性を無くしていく

諸君は主体性を無くしているだけでなく、内側から自分の欲望すらコントロールされているかも知れない。受験の際に使われる偏差値。本来道具にすぎなかったものが、大学選びの指標となっている。模試のデータの上で、君たちは記号として扱われている。君たちの持っている固有の重さや手触りが均質化され、いわば漂白され数値で、データとして表現されている。今、諸君の頑張っているセンター試験においては性格の異なる各教科を均質化し、数量化が行われている。ほんとにこの数値が諸君の価値や重みを表現しているのだろうか。『我々は「実生活」の確固たる手触りを見失っ』ていると言う筆者の主張がおわかりだろうか。

「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「演劇的虚飾にも実生活的虚飾にもまどわされない人間の実存を見いだそうとしたのが、俗に言うアンチテアトル の手法である」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「演劇的虚飾にも実生活的虚飾にもまどわされない人間の実存を見いだそうとしたのが、俗に言うアンチテアトル の手法である」

 



写実主義

人間の持つ感性や自由な想像力を重んじる芸術上の立場をロマン主義と言います。現実よりも幻想的な、空想的な世界を描いています。これに対して現実を重視する立場のことを現実主義・リアリズムと言います。現実をありのままに作品に描こうとする立場を写実主義と言います。写実主義を更に推し進めて人間の生きる姿をありのまま隠すことなく作品にしようとする立場を自然主義・ナチュラリズムと言います。ちなみに感情を表現することを叙情と言い、風景を見たまま表現することを叙景といい、歴史や事実をありのまま表現することを叙事と言います。

演劇
「演劇」とは何か、まずその歴史から考えてみよう。諸君の中にはテレビの「ドラマ」を好んで見ている人も多いのではないか。この「ドラマ」と呼ばれるものは実は「文学作品の一形態である」と言われている。対話のかたちで進行し、役者が演じる事を目的として書かれた作品である。ドラマの語源は、ギリシャ語の「行為する」という語らしい。演技は「行動」であり、ドラマティックに、葛藤・緊張・感情の高まりなどが表現される。

 

 

 あのアリストテレスが「詩学」という書物の中で演劇の起源と役割を最初に論じている。豊饒祈願、収穫の祭りなどの古代の宗教儀式を起源としてギリシャ悲劇が誕生した。ニーチェでも有名な酒神ディオニュソスへの熱狂的賛歌・物語から発展し、詩人テスピスがディテュランボスの物語で主人公を演じたのが演劇の始まりだそうだ。最初は詩人が台詞をかたり、合唱隊がそれにこたえるかたちだったそうだが、その後、俳優や登場人物の数がふえ、演劇が独立した形式として発展したと言うことだ。説明の中でアリストテレスは、「行為を行為するままに模倣すること」が劇であると言っている。

哲学的なギリシャ悲劇は前5世紀に全盛をむかえた。前5世紀半ばには文学的な喜劇も上演されるようになり、前4世紀ごろには、喜劇が悲劇よりも重要視されるようになる。ギリシャ文化がアレクサンダーの征服によって広まるにつれ、喜劇や悲劇は重要性をうしない、人間喜劇が数多く生まれたらしい。恋愛、家族の問題、お金などをめぐっての話であり、登場人物はけちな父親や意地悪な継母である。要は今のテレビドラマの主題に近いもののようだ。俳優はすべて男性でおおげさな衣装を身につけ、登場人物の特徴がひと目でわかる大きな仮面をつけた。この時代の巨大な劇場では、俳優の顔の表情をみわけることは不可能なため、動作が大げさでパターン化しており、大きな声が必要とされた。

 

 

 大きく途中を省略して18世紀の演劇に話を移したい。18世紀演劇は主として俳優のための演劇で、戯曲も特定の俳優の才能にあわせて書かれた。シェークスピアの作品ですら原作の原形をとどめないほどに書きかえられ、「ロミオとジュリエット」がハッピー・エンドだったらしい。
 中世までは演劇、音楽、絵画等、芸術はすべて特権階級のものだった。それが、一般の人々のものになっていく過程では、貴族という限られた者の為の作品であったものから、すべての人に共通する、より大きな普遍性をもった世界を表現するようになっていく。現実主義・リアリズムとは現実を直視しようとする考え方であり「信じられるもの」「現実感のあるもの」「同時代性のあるもの」を表現しようとすることである。貴族だけが楽しめる主観的な演劇から、社会の本質や、人間存在の意義を、人間の理性によって「正しく」認識するための客観的な表現を現実主義の演劇は目指していたと思われる。

 この18世紀を通じて個々に発展してきたさまざまな思想や芸術的概念が、19世紀初頭、ロマン主義として結実することになる。諸君はゲーテの「ファウスト」をご存じだろうか。自分の魂を悪魔メフィストに売りわたす男は、宇宙とたたかいながらあらゆる知識と力を手にいれようともがき苦しむ。ロマン主義作品は精神的なもの、物質や肉体をこえて理想的真実にいたろうとした。近代合理主義に背を向け、個人主義を基本とし、人間の感性や自由を重んじた。合理性より感情を重視し、芸術家は規則にとらわれない存在であるべきだと考えた。したがって、奔放さを特徴とし、その多くは具体的な内容より感情の高まりを主題にしている。 歴史的出来事や異常で非日常的な世界を、かなり単純化された人物をもちいてえがいていたため、現実とはおよそ遠いものと考えられた。

 

 


 19世紀半ばになるとダーウィンの進化論が脚光を浴びることになる。遺伝と環境があらゆる人間の行動の根幹にあるとされた。演劇もこのテーマをえがくべきだと考える人が増え、今までのロマン主義的な作品・精神的なものの価値をすてることになった。フランスのゾラは、劇作家は社会的な病気を直すためには、まず病気の存在を明らかにするべきだと主張した。 芸術の目的は社会生活をよりよくすることであり、劇作家は現実の世界を客観的に観察して描写すべきだと主張した。その結果演劇は、美や理想ではなく社会のより醜悪な部分に目をむけることになっていく。この傾向を自然主義と呼ぶ。

 

 

ロマン主義以降の演劇は完全な写実主義、自然主義であり、現実そのままの再現をめざしてすすんできたが、19世紀末にその目的が達成されると、こんどはさまざまな反写実主義が登場することになる。やや乱暴な言い方ではあるが、演劇界ではこのさまざまな反写実主義が現代まで継続していると言えよう。 いくつか紹介しよう。


 ①ドイツの作曲家ワーグナーは、作曲家や劇作家の使命は神話を創造することだと主張した。この主張を継続する形で象徴主義者という一派が登場した。演劇を脱演劇化すること、すなわち19世紀演劇の技術的・視覚的飾りをすべてとりさり、戯曲と俳優の演技から精神的に価値あるものをひきだすことをめざした。
 
②人間の精神の暴力的でグロテスクな面に注目し、悪夢のような世界を創造する一派も現れた。歪曲と誇張、そして光と闇を暗示的に使用する。その作品は、連続した短い挿話からなり、リズム感あふれる台詞と強烈なイメージが多用され、物語はほとんど人間の救済をめぐって展開する。このグループは表現主義と呼ばれる。

 ③ドイツの劇作家のブレヒトは演劇によって社会を変革できると考え、演劇は政治的であるべきだと主張した。またすぐれた演劇は観客に決断や行動をせまることができるとし、その目的を達成するために、物語演劇に対抗する叙事演劇という理念を提唱した。今日よくつかわれる演劇技法のほとんどは、ブレヒトの影響によるものである。

④ブレヒトと同時代にフランスの理論家アルトーがおり第2次世界大戦後の演劇に多大な影響をあたえた。彼は社会がとりつかれている病をいやすには、宗教的・祝祭的な演劇をつくりだす必要があると主張した。

20世紀演劇で一番人気があり、大きな影響力をもったものは不条理劇である。不条理劇は出来事の因果関係を排除する。言語をたんなるゲームの道具としてとらえてコミュニケーションの力を最小限にしている。また登場人物を原型的人物にまで還元し、場所も特定せず、世界は人間を疎外するばかりか、理解不能なものだとしている。本文に紹介されている「アンチテアトル」とは何もドラマが起こらない演劇であり不条理劇の一種である。

 

実存
次に人間の「 実存」という表現について考えてみたい。「実存」「実際に存在をしていること」と辞書には書いてあるだろうが、理解しにくい。「自分の存在を問いながら生きる主体的な人間存在」とでも言う意味なのだが、今ひとつわからないだろう。これまた近代合理主義、理性のあり方を問い直す一つの流れである。ナイフは「何の目的で作られるか、どういう機能が必要か、材質をどうするか、形はどうあるべきか」といういわば定義があって、その定義に基づいて作られるものだ。だから作る人は、技術的な部分以外は迷う必要はないし、自信を持って行動する(作成する)だろう。ところが人間には定義がない。かつて宗教の支配していた時代、あるいは封建制度や身分制度が確固として存在していた時代には、ある程度の「こういう存在であり、こう生きるべきだ」という指針があったかも知れない。しかし近代においては「人間は、まず急に実際に存在をはじめてしまう。存在にとまどいながら、自分の生きる意味を求めて生きる」しかない。これが「実存」の意味である。サルトルの「嘔吐」は実存に目覚めた人間がある日、周囲を見回したとき、周りの存在の持つ不気味さ、不安定さに耐えきれず嘔吐してしまう人間を描いている。君たちは意味空間で生きている。周りは意味で満ちている。その意味がわかるから安心して生きていられる。ところが言葉の全く通じない外国に、君が旅行した時のことを考えて見て欲しい。トイレがどこか、どうすれば食事が出来るか、全くわからない。不安のあまり、嘔吐どころか恐怖に包まれ泣き出すかも知れない。上級学校を受験する、大学に合格する、それが何の価値もないものであったなら、誰かに価値ある行動であるとすり込まれた、教え込まれたものにすぎないとしたら、今現在、君が頑張っていることに何の意味があるのだろうか。
 いや、大丈夫だ。大学という世界は君が今考えている以上のものを、もたらしてくれるはずだ。私の言葉を信じて勉強して欲しい。

2022年02月02日

現代文語彙13

2006年追試験の1番評論

 美術館という施設にはさまざまな機能があるが、その中心となるのは当然ながら作品の収集と展覧会の開催である。研究機関や情報センターとしての役割、美術館教育、また最近話題になっている(アーチスト・イン・レジデンスなどは、この二つの機能から派生した活動、あるいはそれを補完し充実させるための活動と言ってよい。  

 


「アーチスト・イン・レジデンス」Artist In Residence 「宿舎と創作の場と作品発表の場」を提供して、ある期間、芸術家にそこに滞在してもらって、創作活動を支援するものだと注には書いてあるが具体的にイメージできたであろうか。アメリカやヨーロッパでは1960年代から70年代にかけて盛んになった形のようだ。しかし、芸術家がどこかに滞在して支援を受けながら作品を創るということは、日本でも昔からあったことで、別に新しいことではない。 現在でも、福井県の「金津創作の森」のガラス工房では作家を目指す若いアーチストたちが頑張っている。あるいは「いまだて芸術館のアートキャンプ」と呼ばれているものも、この活動と同種のものだろう。 

ここで「美術館という施設」の歴史を簡単に見てみたい。 英語では美術館と博物館はともにmuseumであり、区別はない。日本では、美術品以外のものをあつめた所を博物館と呼ぶようだ。歩廊などを意味する「ギャラリー」が、美術館の意味でもちいられていることはご存じだろう。美術館の歴史は、個人から国家のレベルにいたるまで「収集・コレクション」から始まっている。

王、皇帝、貴族の収集品を陳列したり体系的に整理し蓄積していくというやりかたは、古代ギリシャ、古代ローマからなされてきた。中世は教会そのものが一種の美術館になっていた。ルネサンスとなり、古代を再評価する動きが起こり、教皇、新興商人、皇帝が美術品の収集をすすめていく。油絵が発明されて美術作品が財産となり、商品として流通するようになった。自分の家に収集室を設けて、美術作品を壁や床に飾り立て、親しい友人や著名な人など限られた人たちに見せていたという。フィレンツェのメディチ家やフランス王やスペイン王らのコレクションがもととなりルーブル美術館等の基礎が出来たらしい。

 

 

こうした王侯貴族による美術品収集は、一八世紀の啓蒙主義の時代をへて、一部のかぎられた特権階級から一般の人々に公開されるようになり、一九世紀にはいるとヨーロッパ各地に、美術館が次々に生まれていった。美術専門の美術館が成立した背景として、一八世紀のフランス革命混乱時の美術品の国外流出が挙げられる。この流出を避けるためにパリのフランス国立美術館が設立され、さらにナポレオン戦争によってもたらされたヨーロッパ各地の戦利品が収蔵されて内容の充実をみた。これを機にフランス軍に攻略された諸国も、自分の国の美術品を守る必要から、美術専門の博物館を充実させていった。

19世紀以降は、美術館が美術品収集を任せられるようになり、一方では新しくのしあがってきたお金持ちを中心とする個人の収集活動も盛んになる。美学や美術史の発達にともなって科学的に分類・整理され、時代順、地域別、ジャンルごとに再編されていく。それまでお金持ちの家の壁面全体をおおっていた作品が美術館においては、時間軸に沿って一列に作品群が並べ替えられ、観客は順路に沿ってめぐるだけで美術の流れが追えるようになる。

第二次世界大戦が起こると美術品の消失と破壊をさけようとする努力は、美術館活動においても一種の国際化をもたらし、それまでの権威と富の象徴や国家の象徴としての美術館という性格は変わっていくことになる。


「芸術作品というものの本来のありように照らせば何とも不思議な鑑賞形式ではないだろうか」 「芸術作品というものの本来のありように照らせば何とも不思議な鑑賞形式ではないだろうか」

 


 問題文で筆者が「不思議さ」と述べている立場を考えてみよう。私たちが美術館で作品を見る場合、三つの見方があると思われる。一つはひとつひとつの個別の作品を見るという観点。二つ目は、複数の作品が並ぶことに伴って言わば一つの意味を持った大きなうねり、流れのようなもの、個別の作品だけには還元できない意味を見る観点。三つ目に「展示の構成を考え企画した人のねらい」を読み取る観点がある。問題文の筆者は本来、美術作品は一つめの個別の作品を見る立場が鑑賞者としての基本と考えている。原則として芸術家も美術館展示を意識して創作はしていないだろう。

「私たちはここでひとつのジレンマに直面することになる」


「ジレンマ」だけでなく「葛藤」「軋轢」「相克」の四語について説明しよう。「ジレンマ」とは、ある問題に対して、二つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態の事を言う。dilemmaギリシャ語を語源とする英語であり、diは二つを意味しlemmaは仮説や前提を表す。二重の問題とでもいう語義である。「おいしいものを食べたい、でも痩せたい」有名な例ではハリネズミが寒いからといって、仲間のハリネズミと寄り添う。すると、針が刺さって痛い。離れれば痛くはないけど寒い。寄り添えば寒くはないけど痛い。

 


「葛藤・かっとう」は、字をご覧になればわかるように「つる草」の意味だ。「①人間関係のもつれ、いざこざ ②心の中に、それぞれ違った方向、あるいは相反する方向の力があって、その選択に迷う状態」と説明される。葛藤の集合の中に、二者択一のジレンマは含まれると考えればいい。

 


「軋轢・あつれき」固いものがこすれあって、ぎしぎしと音をたてることを「きしる」と言う。軋も轢も「きしる」と読む。仲が悪くなり争うことを軋轢と言う。「相克・相剋・そうこく」は相容れない二つのものが、互いに勝とう・克とうとして争うことである。あと、類語として「確執・かくしつ」もある。この語義は諸君の手で調べてみてほしい。

 「アトリエでの孤独な営為によって生まれた作品は、一点一点が自立した価値を持ち、単独で鑑賞されうるものであって」  「自立と言う芸術の奢りの当然の報いであり、なお純粋であろうとすれば昔懐かしいボヘミアンを自ら再演させられることになる」

「アトリエでの孤独な営為によって生まれた作品は、一点一点が自立した価値を持ち、単独で鑑賞されうるものであって」

「自立と言う芸術の奢りの当然の報いであり、なお純粋であろうとすれば昔懐かしいボヘミアンを自ら再演させられることに なる」

 

 

ボヘミアンとは故郷をなくした人という意味で使われる。一九世紀末、戦争や人種差別、政治的迫害などで故郷を追われた人々が、さまよう生活を送るが、あまりにその生活が長くなりすぎたために自分のアイデンティティをなくしてしまったような人々を指すようだ。移動生活者、放浪者として知られてきたが、現代では定住生活をする者も多い。かつてはジプシーとも呼ばれた。

 ただボヘミアという国があることを諸君はご存じだろうが、その国の人もボヘミアンと言う。このボヘミアンたちの住む地方は牧畜が盛んで、黒い皮の帽子に皮のズボンにベストがアメリカのカウボーイの服装に伝わっていったといわれているそうだ。このカウボーイスタイルは西ヨーロッパでは、芸術家気取り、芸術家趣味と考えられて、このデザインに対してボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれている。

ところで美術家とは何を行おうとする人か、すぐ答えられるだろうか。作品展に登場する画家と呼ばれる人はどんな人か。画家とは絵を描く人である、そう答えても、何も答えたことにはなるまい。先に書いたように、かつての画家の描く作品は社会から価値あるものとしての意味づけを与えられ、財産としての確かさをも備えていた。が、その画家の描いた絵画は、今の私たちの社会の枠組みの中で定まった位置づけを獲得していると言えるのだろうか。現代の絵画の世界は、いや描かれた映像の現象は混沌ではないかと思えるほどの「多様性」を示している。美術館を訪れた諸君は、そこに展示されたものに対してとまどいを覚えることはなかっただろうか。夢や幻想の世界、直線と四角だけで描かれた絵画。美術作品と呼ばれるものがこれほどの多様性を持った時代は初めてではなかろうか。

 「人間がみずからの内部の曖昧な感情をのぞきこみ、それを言葉やかたちや音によって定着し、何よりも自分自身のために、その感情を明確化する営みであり、自分自身による世界認識の営み」と書かれている文章を読んだことがある。何か決まったものを表現するものではなく、芸術は何かを見つけ出すことであるということだろう。しかも世界観、世界をどう見るかを確立する営みであるなら、自分自身が何者であるかを発見する営みでもある。と言うことは美を鑑賞する私たちは作品を通して、本質的なもの、普遍的なものを感じ取るように努力する必要があることになる。

 

 

 最近の施設の多くはホワイトキューブ型のシンプルなギャラリーを備えており」 最近の施設の多くはホワイトキューブ型のシンプルなギャラリーを備えており」 先にも書いたが、かつての収集家の家においては現在のように壁に余裕をもって絵を掛けるなどということはせず、いかに壁に余白を残さずに絵で埋めつくせるかということしか考えてないような、過密な展示がなされていた。作品は時代や地域やジャンルごとに分類されることなく、あたかもパズルのように壁面を埋めるための一つのピースとして扱われることとなる。作品を一点一点じっくり見せるより、財産としてのコレクション全体がいかに豊富であるかを誇示したかったのだろう。このような個人コレクションから発展した初期の美術館も、こうした資産家の収集室と同様だったようだ。展示室での作品の二段掛け三段掛けは珍しくなかったようである。

 現代美術を扱う最新の美術館は、直線に囲まれた真っ白い壁の「ホワイトキューブ」が理想とされる。外観はともかく内部は「ホワイトキューブ」で統一されていることが多い。白い壁面には、隣り合う作品が視野に入らない程度の距離を保って個々の作品が展示される。本問題の筆者の言う「一点一点が自立した価値を持ち、単独で鑑賞されうるもので」あることに重きを置いた展示が為されている。

 その論考の出発点として彼は上記の問題とも通底する美術館に対する典型的な否定的言説を取り上げている。たとえば小林秀雄だ。」  
「小林秀雄」この知の巨人の作品の一部でも是非、諸君には触れてみていただきたい。天才である。侵入した強盗の突きつける刀をものともせず、やおら起きあがり、煙草を口にすると説教をはじめたというエピソード。その強盗は翌朝、土産を持って再度、小林邸を訪れたと聞く。中原中也と女優をめぐって恋のさや当てを演じたという話も何だかうれしい。日本語よりも早く英語を読んだとも言われている。さて、彼の描く評論には、凄みがある。とてもこの人にはかなわないという畏怖すら覚える。若い頃、遠くから、ちらっとしか、姿を見かけたことがあるが、凛とした小柄な身体から大きなオーラが出ていた。

 「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは董の花だとわかる。何だ、董の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。董の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。董の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」

 

 

 この「美を求める心」の一節を読めば、美術館に対し小林秀雄が否定的言説をとることは納得できるだろう。小林秀雄は、「美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していた」「美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだ」ということを述べている。
 「骨董いじりは美の近代的鑑賞のアンチテーゼどころか、その一ヴァリエーションにすぎないのではあるまいか」

「骨董いじりは美の近代的鑑賞のアンチテーゼどころか、その一ヴァリエーションにすぎないのではあるまいか」

アンチテーゼ 
「テーゼ 」 ドイツ語で「命題」やるべき主題・為すべき事柄・方針書という意味であるが弁証法から理解した方がわかりやすい。弁証法の話をすることにする。

 

 弁証法(辞書の説明には以下のように書かれている)
 ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の三つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben,・止揚・揚棄)される。

上記の説明を読んでも、よくわからないだろう。もう少しわかりやすく書き換えてみる。
  1.あらゆるものは、それ自身を否定する要素を内在的に持っている。
  2.その要素が外在化してもとのものと対立する。
  3.これらの対立はもとのものも、その対立物をも否定したより高度なものを生み出す。

 まだわかりにくいかな。それでは例で考えてみたい。

1.「教育においては優しさが必要だ」と言う人や「いや、教育においては、厳しさが必要だ」と述べる人がいる。この段階では、互いに意見は、まったく対立し、矛盾している。

2.「生徒を叱らないということが、本当の優しさなのだろうか」という意見や、「ときに厳しく叱ることが、本当の優しさではないのだろうか」といった意見。「厳しさの背後に、叱る人間の怒りがあってはならないのではないか」という意見や「厳しさの奥に、その生徒の可能性を深く信じる心がなければならない」といった意見のやりとりが行われる。

3.こうした意見が交わされる中で、思考は深まっていき、生徒への教育の本当の意味がわかってくる。そして、最終的には、単なる優しさでもなく、単なる厳しさでもない、それらを包含し、統合し、止揚した、さらに深いレベルでの教育のあり方に目が開かれていく。
 
どうだろうか、少しでもわかってもらえれば良い。大学できちんと理解できます。

「私が美術館から距離を置いて思い知らされたことは、それが紛れもない一つの権力として機能しているということだ。」

「恣意性を排す努力は必要だろうが、それは学芸員の立場がニュートラルであることを意味しない」

「私が美術館から距離を置いて思い知らされたことは、それが紛れもない一つの権力として機能しているということだ。」

このことに関連して「和魂洋才」という言葉を想起したのでこの言葉の説明をしてみたい。ご存じのように江戸末期には幕藩体制を支持するグループと天皇を中心とする近代化を目指すグループとが戦った。結果、日本は近代国家を創始することになる。

ところが当時、まず「国という考え方」そのものがなく、「村とか藩」しかイメージ出来ない人々がほとんどであった。したがって、まず「国とは何か」を法律を作り、学校制度を作って教えることとなった。じゃあ、何語で教えるか。日本語?いや日本語と言うか標準語は当時には、まだなかった。「はよ、しねの」の福井弁はあったろう。しかし、共通語は無かったのである。標準語を作る先駆けは、あるいは言文一致運動であっただろう。が何を土台にして新しい日本語を作っていくかを為政者は考えねばならなかった。

 教える内容は西洋の知識・技術を基本として組み立てられた。必要な作業は翻訳である。アジア諸国が植民地化されていく現状。アヘン戦争でイギリスに大敗を喫した中国。何としても西欧に対抗したい。このままでは日本も植民地化されてしまう。そんな危機意識の中で、知らず知らずのうちに、さまざまな翻訳語とともに自由主義・個人主義・近代文明が圧倒的な量とスピードを持って取り込まれていった。西欧文明は土台の部分に、自由で平等な個人・合理的な判断に基づく責任と義務という精神を内在していた。科学技術はもちろんのこと、文学、芸術に至るまでデカルトにはじまる二元論の考え方が含まれていた。

 

 

政府は日本古来の伝統的な精神はそのままに、物質的な近代化を果たそうと「和魂洋才」というスローガンを立てた。そのスローガンのもとで一定以上の効果は上がった。しかし、どんなに切り離したつもりでも、教育を通して近代的なヨーロッパ精神は入り込み、日本人の考え方を変革していった。「恣意」とは自分の思い通りにすることであり、「ニュートラル」とは『中立の』、『中間の』とか『はっきりしない』という意味である。学芸員は恣意性を排する、すなわち自分の好みの押しつけにならないように慎重な作業をしたに違いない。客観的な立場で作品群をとらえようと努力し、何主義にとらわれないように展示を考えたつもりだっただろう。しかし結果は、美とはこうあるべきだ、作品はこう鑑賞すべきだ、この作品はこういう価値があるという押しつけ、権力者の教育機関としての機能を果たしている。

 

 

モダニズムを象徴するアポリア
 モダニズムとは20世紀以降に起こった実験的な芸術運動を指す。従来の芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した。この文章ではモダンアートと読みかえても良いだろう。アポリア(難題)は、ギリシャ語で袋小路という意味である。行きづまりを指す。20世紀となり、未来派、キュビィズム、シュールリアリズム等の様々な運動が起こったが、これらの運動自体もやがて閉塞し、1970年代後半頃からモダニズムの終焉が叫ばれたことを本文の表現は背景にしていると思われる。

2022年02月02日

現代文語彙14

2007年度本試験評論問題から
「不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭はおよそ芸術と言えるかどうか。」

 



 この問題文で指摘されている「日本の芸術のあり方」を考える前に、私たちが共通して持っていると思われる「日本人の自然観」に触れてみたい。松下幸之助と言う人の名前をご存じだろうか。松下電器いや諸君にはナショナル電気あるいはパナソニックといった方が良いのかもしれない。パナソニックと言う会社の創始者の方だ。この方が経営の秘訣について「天地自然の理法に従って事をしていることだ」と言っておられる。このように人生観や世界観を述べるとき自然という観念に拠り所を求める人が日本人は多い。世界と自己との関係にゆがみや矛盾があれば不自然であり、調和していれば自然と感じるわけだ。

 

 

 

ところで、この「自然」という語が「natureネーチャー」の訳語として使われ出したのが明治以降であることをご存じだろうかそれ以前は「じねん」と読み「おのづから」という意味の形容詞あるいは副詞として使われている。「現代の自然・ネーチャー」にあたるものは「天地・造化・山川草木」と呼ばれていた。ネーチャーを表す言葉が無かったと言う事実は、日本人が「自然」を自分と切り離したものとして見ていなかったことを表している。よって自分の住む世界・社会は自然の延長線上にあるものとし捉え、「社会」を創り上げるべきものとして考える意識が弱いとも言えよう。

 


ヨーロッパ的な発想では「社会とは人間が意図的創り上げたもの」である。そこに弊害や矛盾があれば改良していくべきものとなる。当然、人間の創り出す文化も自然と対立したものとなる。伝統的な日本家屋が、縁側があって外の自然に開かれているのに対して、西洋建築は外界との境は壁によって閉じられている。

 



もう少し、別の観点から日本人の自然観を考える。「藁葺きの屋根の農家・夕日に照らされた赤い柿の実をつけた木のある風景・家の屏風に描かれた小雨が煙るように見える桜の吉野山」「桜咲く吉野」というもっとも美化され理想化された造形なイメージを日本人はこよなく愛している。名所旧跡や常套的と思えるものの取り合わせ、季節の様々な景物が屏風や装飾画にかれる。目に映ったものを忠実に再現する西欧的な写実的技法とは無縁である。風景を「もの」としては眺めない。主体が体験する、いわば「出来事」として眺める。桜は「こうあるべきだ」と言った理念をイメージ化しようとする。

季節は日本の伝統的文学・美術において重要な位置を占めてきた。「自然は季節において、刻々と変化しつつも、欠けることなく充満した姿を見せている。人間は自然の中の一つの存在として、この自然の中にいる。」

普段、諸君も気づかないまま過ごしているだろうが、私たちは日々の生活の背景としてある日本文化の中で、知らず知らずのうちに、ある特定の感性のスタイルを持たされているのだ。「暗夜行路」の主人公は「疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この広大な自然の中にとけ込んでいくのを感じた」としている。単に美意識としての風景という次元を越えて、自然は私たちの深部にあり、私たちを支えてすらいるかもしれない。「不来方のお城の草に臥ころびて空に吸われし十五のこころ」啄木のうたである。

 さて「芸術」に話をもどそう。「芸術」は学問(科学)や宗教と並ぶ「人間の知」の一つであると言われている。ローマ帝国が広がるにつれてキリスト教が広まり、神の代理人としての教会がヨーロッパ世界を支配した。人々の間には宗教を通して明確な世界観(人間が世界をどう見るか)が共有されることとなる。芸術は、宗教画や宗教音楽と言う形で「完全なる神の世界」を象徴的に描くものであった。

 近代となり、神の束縛から解放され、個人として自由に活動するようになって「芸術」の働きは変わったのだろうか。科学が近代の豊かさを生み出したことは間違いない。が、科学は完全なものではない。「命とは何か。愛とは何か。」を科学は説明できない。科学は自然の普遍的な法則を明らかにしようとした。しかし人間の理性を駆使しても、きわめて不自然な形でしか、部分的なものとしてしか、命や愛や世界を示せなかった。それを補い普遍的な世界、全体的な姿を明らかにしようとして「芸術」家は今も模索していると言えよう。 

「自分一個のはからいを極微にとどめる」

「座の雰囲気の純一化」

「自己を没却し、自然のままに随順し、仲間と楽しみを一つにする」

「作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考え・ヨーロッパ風の芸術理念」

「造化に随うという東洋古来の理念」 


 

上記の複数の表現に見られる「全体と個の表現」について考えてみたい。まず「茶碗」の美について考える。この陶器は無名職人によって日常の用のために作られた雑器である。職人たちは美を作ろうとしたのではあるまい。積み重ねられた長い伝統と、くり返された長い経験が器を作り出した。いわば無造作な自然な心が彼らに美を作らせたと思われる。職人たちは自己を高めようする西欧の芸術家のあり方とは逆に自己を無名にすること、自己の存在を低めようとしている。低めることで自己と世界のありが見えてきたのではないだろうか。自己を低めることは、世界に対し、自然に対し敬虔な心を抱くことであり畏れを持つことである。その心が「器の美しさ」を巧まずして生み出す。

さらに日本の芸術家にとって自然は表現の対象であるにとどまっていない。芸術作品に最後まで責任を負うのが西欧の芸術家であるなら、日本の芸術家は、その作品の完成を自然と歳月の手にゆだねる。碗を焼き上げる竈の火加減や、庭園の石の苔や塀の染み汚れが作品の完成に手を貸す。職人たちは、その先の一瞬のいのちの輝きを得ようとしているとも言える。

連句の集団による作品制作の場における芭蕉は言わば指揮者である。日本的なリーダーは場を調する世話役タイプが良いとされ、たとい能力があっても、それに頼らず無為であることが理想とされる。自らの力に頼るのではく、全体のバランスをはかることが大切であり、必ずしも力や権威は必要とされない。連句としての前後のつながりを含めて作品であること、複数人で続けて句を詠みあうという表現の性格から、作り手と受け手が同一空間にいる必要のあった俳諧の連歌の宗匠としての芭蕉は、まさにこのタイプのリーダーであったろう。

 先に日本人は自然と連続的な意識を持つと書いた。同じように、日本人が自分の属する集団と連続的な意識の中で生きようする傾向を持つことを指摘したい。インディビジュアルという語に「個人」と言う翻訳語をあてることが定着したのは、これまた明治の十年代の後半らしい。この語に相当する言葉がなかったのだから「個人」という意識は人々の間に生まれていなかっただろう。


さて諸君は「人」を単位としてではなく、その「所属」で見てはいないか。目の前の先生をどう見ているのだろうか。先生の考え方や感性よりも出身大学がまず気になるのではないか。自分の属する集団だけでなく、相手を相手の属する集団の中の一員として、まず捉えようとする傾向があることに気づいてほしい。

名刺では、名前より勤め先や役職がその用紙の大きな場所を占めている。普段の生活の中で諸君は、自分の所属する集団における先生やクラスの生徒の非難や嘲笑を恐れて、他者の目を常に意識して自分の行動をコントロールしているに違いない。誰も見ていなかったら、何でもやるという人もいるようだ。アカの他人にはどう思われても良いが、世間体は大切にする

 

 


今も個人単位で人間を見ないという点では同じであると言えそうだ。ヨーロッパの学校では先生から命令されても、自分の理性に照らして納得できない場合は、先生の指示であっても拒否する場合があると聞いた。日本の学校では個人の判断は、たとえ理性による的確なものであっても、個人的な判断であり、わがままと見なされる。

 



 私たちの行動をコントロールするものの一つに本能がある。普段の私たちはもう一つの私たちをコントロールするもの、「自我に基づいて行動をしている。自我とは、「本能以外のもので、行動をコントロールする内部的な規範のこと」であるが、日本人の自我は孤立的なものではなく他との交流を通して形成されると言われている。相互依存・相互信頼を基本とする。

君たちは他者との関係において一人称を使いわけているはずだ。大人と接するときは、自分を「僕は・・」と表現し、友達と接するときは、自分を「俺は・・」と表現している場合、明らかに相互関係を機軸にしていることがわかる。このことは、他者のあり方から自分のあり方を検討する内的コミュニケーションを発達させてもいる。個性を演出したいのなら、ピンクやブルーの髪型やズボンをはいてもよさそうなのに、そろって君たちは茶髪・短いスカートを選択する。家族においても、その一人一人は独立した個人意識を持たず、家族という集合の中でまとまっている。その家族に対する意識は家の構造にも反映されている。隔てのない家族の間柄は、襖や障で仕切られただけの鍵のかからない部屋によって象徴されている。

 

個人意識を重視する西欧の家屋は個々別々の部屋に仕切られ、それぞれの部屋が鍵を持つ。日本家屋では玄関で靴を脱ぐ。家と外は明確に区別されている。西欧人が部屋から出れば、たとえそこがリビングであろうとパジャマ姿でくつろぐところではない。ホテルの廊下を浴衣姿で歩く日本人に対し怪訝な顔を外国の方が向けるのは当然なのだ。

2022年02月02日

現代文語彙15

2007年度追試験評論問題から
普段、聞き慣れない専門的な語句が多いので、内容がややわかりにくいかと思います。筆者はことばを話し始める前の段階、いわば「ことば以前の状態」について考察しています。この、「ことば以前の時期」はおかあさんの体の中にいるときからすでに始まってると言われています。

 

 

受精後四か月を過ぎると音が聞こえはじめて、血液の流れや心拍の音と、母親の出す声を耳にする。そし子どもはこれら二種類の音を記憶し、母親とそうでない女性の声を聞き分けることができると言われています。以下の表現は、のことを述べています。

「生後間もない新生児もすでに、将来の母語とそれ以外の言語音とにたいして、ことなる注意反応を示すことが知られている。このことは、子宮内の胎児が、母体の血流のリズム、自分の拍動と 母親のそれとのシンコペーションのほかに、周囲の他者たちの発することばのざわめきを耳にして」いること、あるいはむしろそれに耳をすませていることを示唆している」

 

 

 次にコミュニケーションの原型と思われる行動を、子どもは生まれつきするとも言われます。一般に同じ文化に属する2人が話し合っているとき、二人の意思が疎通し、通じ合っている時ほど話し手の姿勢の変化とか、首の動きなどにつれて聞き手の動きも同調しあうそうです。もともと新生児自身、リズム的な活動を潜在させており、リズムを持つ環境刺激に対しては同期的に反応しようとする傾向を持つこと、そしてヒトの会話の音は、他の音刺激にくらべて、はるかに新生児が同期しやすい刺激としての性質をその中に兼ね備えていることが指摘できるそうです。

 

 

もう一つ、新生児は共鳴動作というものを行うと筆者も述べています。子どもが機嫌よく、目を覚ましているとき、抱き上げて目を合わせながら顔の前でこちらからゆっくりと「口の開け閉めや舌の出し入れ」をして見せると、子どもはしばらくその動作を見た後、やがて口元の筋肉を引き締めるか、口を尖らすようにしたりするのが見れます。さらに続けると、こちらの動きのリズムに合わせているかのように子どもも口元を動かす場合もあります。

子どもは「目の前の刺激の動きに同調し一体化して自分も動くことそのものが快となり、この共鳴動作を活性化している」と言われます。こらのことから、子どもはことばをことばと理解する前にコミュニケーションの原型を生得的にもっているようです。本文では以のように書かれています。



「誕生したばかりの新生児は、おそらく皮膚を介して最初の重要なコミュニケーションを受容するであろうし、会話の開始や終止、聞き手の注意の喚起にさいして、相手の身体の一部にふれる行動は、おとなについても観察される。

ヒトの言語行動の系統発生的な原型を、チンパンジーのあいだで観察される

「社会的毛づくろいsocial grooming」のうちに認定する仮設も、そのかぎりではじゅうぶん検討にあたいするものだろう。」

「言語発達をめぐる知見をみるかぎり、交流そのものへの欲求こそが言葉の誕生を準備するように思われる」

知見とは(知識・意見)のことです。

 


言語論に関しての出題は二次試験等において、今後も予想できますし、言学者ソシュールが作った新しい見方が現代思想の源流を作り出していると思われるので、「ソシュール」の業績と考え方についの基礎的な説明をしておきます。

 ソシュールの言語観についてソシュールがその論を発表するまで、「言語というものがどう考えられていたか」についてまとめてみます。

① まず客観的にモノ(物質的なもの)やコトが存在し、言葉はそれらを指し示す道具と考えられていた。言葉はモノに対応しており、モノの目録、カタログのようなものである。犬というモノがあり、次にそれに対応する単語である「イヌ」という単がある。

② 言葉が無くても、客観的な事物は確固として存在している。言葉は消極的な役割しか果たしていない。事物が命名に先立て存在し、命名は後から行われる。

③ 言語は人間が思考したり、その思考を伝達する手段、人間の思い通りになる知の道具であり手段である。

 次にソシュールの言語観がどういうものかを簡単にまとめてみます。

① 生まれたばかりの君にとって、周りの世界はすべてつながって見えるに違いない。君の周りを大きなどろどろのドーナッが取り囲んでいる状態だ。その中から、ある日「ママ」という言葉を獲得すると同時に世界が「自分にミルクをくれる暖かい在」と「ママ以外のもの」に分離される。「ママ」と「ママ以外のもの」という二つからなる世界の構造を君は自力で解明しのだ。
次に「パパ」と呼ばれる、少し臭い、やたらべたべたしてくる存在にも気がつくに違いない。こうして君は世界の構造どんどん理解し始める。混沌とした連続的で切れ目のないマグマのような素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意と思われる仕方で、虚構の分節を与え、切れ目をつくり、そして観念なり事物なりのカテゴリーとして分類する働きを言葉は担っている。

 

 

時間というものを考えてみよう。諸君は秒・分の存在は当然のことのように考えておられると思う。自分が何を妄想しようが、傍らでは正確な時が刻まれていることは疑いようもない。が猿や犬にとって分・時間・秒などは理解できないことは 当然として机と椅子の区別、これも出来ないだろう。机と椅子が違う、時間がある、そう思うのは全く人間特有の視点であり、机がある、1時間が経過する、そう思わせるのは実は言葉の力なのだ。

 


絶えず生成し、常に流動している世界をまるで整然と区別された、モノやコトの集合であるかのような姿の下に、人間に提示してみせる虚構性を言葉は持っているのだ。私たちは言葉によって自分の周囲にあるものを名付け、名付けることによって世界を理解していく。したがって、ある存在について名前を獲得することが、その存在に対する認識を獲得したことになる。すべての物に名前が与えられ、秩序づけられ理解されることによって、世界の体系化がなされると言ってもいいだろう。物理的に物が存在していたとしても、名前が与えらないうちは、私たちにとっては存在しないのと同じなのだ。

 



② 言葉によって名付けられる前に、物や観念は存在しない。その言語は差異の体系である。言語の意味は別の言葉との差異によって決まる。実はこの考え方がそれまでのプラトン以来の西欧の考え方を解体してしまうような発想の転換であった。犬というモノがあり、次にそれに対応する単語である「イヌ」という単語があるのではなく、単純にイヌやタヌキや狼というそれぞれ別の概念との関係で決まったに過ぎないものであると、ソシュールは今までの西欧の考え方を否定した。難しい言葉では実態概念を廃棄し関係概念を確立したとされる。机・椅子という文字とツクエ・イスという音と実物の机や椅子との結びつきには本来何の必然性もないとされた。この恣意性とレヴィストロースの野生の思考(この本もおもしろい、ヨーロッパ人のうぬぼれを叩き潰している)から構造主義という考え方が生まれ出ることになる

 



③ 言葉は人間がこの世界をどのように見ているかにかかわる根源的なものである。君は生きるために世界を分節している。「上と下」「大学合格と不合格」「未来と過去」「明日と今日」これらの言葉は、君が今の世界をどう認識しているかを表すものだ。言葉は、あなたの、この世界での「ものの見方そのもの」であり、文化そのものなのだ。

また、君たちは、言葉というフィルター、網の目通してしか、この世界をみることが出来ない。「痛い」「あの子悲しそうな顔をしている」痛みという感覚すら「痛い」という言葉に置き換え世界を、自分の身体を理解している。私たちは、言葉によって自分の周りの世界を把握している。世界のあらゆる物に言葉のラベルを貼り付け概念化してきた。

一方、言葉を使用すれば、自由とか平和といった非実在の概念すら作ることは可能である。実在と直接、私ちは関係していると思っているが実は言葉の網の目を通して、そう感じているだけで、実際には実在と直接関わり合うことは少ないのかも知れない。言葉によって世界をつかもうとする行為をシンボル経験と言うが、シンボルとは言葉のことだ。君たちが現代社会の教科書で、この世の中の仕組みがわかったと思っても、それは観念的な理解にすぎず、頭の中だけでわかったつもりになったに過ぎない。 

観念的な理解を真の知識にするためには、体験して確認すること、自分の目や耳などの感覚器官を通して確認することが大切かと思う。テレビの中での恋愛をみて、恋愛なんてと、わかったつもりになるのではなく自分の目や耳を通して、経験を通して確認することが、ますます重要な時代になっていると思われる。

 

 

④ 言葉は人間と世界をつなぐ媒体である一方で、人間のみる世界をゆがめたり、狭くしたりする可能性のあることも知ってほしい。考えるとき、日本語で考えているわけだが、日本語は既存の秩序に従ったある体系を言葉の内部に持っており、その体系、流れに沿ってしか私たちはものを考えられないのだ。その体系、いわば物語は、日本の文化、伝統に基づいて作られているので、当然、日本的な日本人としてのものの見方しか出来ないのだ。世界には虹が七色ではないと思っている国の方が多いことをご存じだろうか。フランス人にとっては蝶も蛾も同じパピヨンなのだ。「物をとってくれ」は、テイクミーではなくパスミーであり、テイクを使えば強盗になるかもしれない。言語は、同じコトを違う言語で表現しているわけではなく、同じ表現に思えても違う内容であると考えた方がいと思われる。

 

 

文化と言葉は密接なつながりを持っている。違いを認識した上で異文化理解をしていかなければならない。言葉や宗教の違いが戦争や紛争を引き起こすことも多い。したがって文化の違いが戦争を引き起こしているとも言えるのだ。自由にものを考え、自由にしゃべっていると思っているだろうが、それは思いこみにすぎないことを知ってほしい。イスラム教徒とキリスト教徒の信じる神は同じであり、神の言葉を告げる存在が違うに過ぎないのに戦いを続けてきた。

 

 

 ここから教科書の文章を引用しつつ述べます。
私たちは言葉を話す能力を持っています。この能力のことを言語学では「ランガージュ」と言います。(言語学の用語はフランス語が多いのです)
次に日本語、英語、イタリア語など、それぞれの言語、辞書の見出し語を「ラング」と言います。ソシュールはいろいろな「ラング」に共通し見いだすことの出来る普遍的な、抽象的な要素を言語学の対象にすべきだと言っています。

「ラング」である日本語が具体的な音声となったものが、諸君の発話であり、諸君の文章です。この「発話」や「文章」のことを「パロール」と言います。「ラング」としての日本語は日本人全員に与えられた法律、規則のようなもの(辞書・文法書)であり、その「ラング」が諸君一人ひとりの音声や文字で具体化した姿をソシュールは「パロール」と呼んでいるわけです。

伝えたい内容が心の中に出来る。その内容を相手が理解できる日本語に整える。この作業が「パロール」であり問題文の「発話」とは「パロール」の事です。本文の「音素や記号素と呼ばれる非連続的で分節的な言語の要素」の集まりが「ラング」というわけです。

さて、記号について話します。言語も記号のひとつです。

 

 

まず交通信号を思い浮かべてください。赤い色が点灯しました。諸君はまず赤い色に気づきます。この「赤色灯」をソシュールは「シニフィアン・聴覚映像」と名付けました。諸君は「赤色灯」に気づき「停止」をします。この「停止」はいわば「赤色灯」の記号の内容です。ソシュールは、これを「シニフィェ・概念」と名付けました。

記号は、この指示部と対象内容の二項目によって出来ていると考えられます。建築物・衣服も記号と考えられます。これらは実用的な働きだけでなく厳さや華やかさを表現しています。あらゆる文化現象は記号であると言えるかもしれません。

ソシュールは言語という記号を他の記号と区別して考えました。この「シニフィアン」と「シニフィェ」が紙の表と裏の関係のように一体化していて、分離して考えることの出来ないものが言語記号であるとしました。ラングである日本語はこうした言語記号の倉庫のようなものです。私たちが「発話」をしたり、文章を書くときに、この倉庫からさまざまな言語記号を引っ張り出してくるわけです。日本語、ラングは言語記号を結びつけ、構造化する規則も持っています。ソシュールはこの各言語記号、各要素日本語というラングの総体の中で、実体として構造化されているのではなく、各要素と全体との関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えました。各要素との関係で差異化され、価値付けがなされている。これが有名な「差異の体系」と呼ばれものです。

「差異の体系」とは何でしょうか。たとえば500円硬貨の持つ価値を考えてみましょう。500円という価値は、他の100円、10円の持つ価値の体系の中で決定されます。500円硬貨そのものの金属の固まりに500円の価値があるわけではありません。また500円という価値は10円玉50個でも100円玉5個でも交換できます。このような体系を創り上げ、私たち貨幣制度として、さまざまな実践を通して等価の商品との交換に用い、変更してきました。

同じように、それぞれの日本人が各人の「表現・パロール」を通して、新たな「日本語の世界・ラング」を作りあげ変更してきました。その「ラング」こそが私たちの文化を構成してきたとソシュールは訴えます。あなたにとって日本語(ラング)は、「あなたと世界を媒介する関係の網の目を構成しています。その網の目を通して世界を理解し、網の目を通して自分を表現しています。リンゴはリンゴという実体とし私たちの眼に入ってくるのではありません。リンゴという言葉によって、リンゴと他のものとを区別して把握しているのです。以前にも書いたように、このように世界を分節化することで私たちは生きています。この「ラング」の力は日本文化の形成に大きな役割を果たしています。このラングの構造を探求することで社会の構造や文化の成り立ちを考えようという記号学が生まれます。記号と呼びうるものには映像、体の動き、メロディを持った音楽、宗教的儀式、演劇、習慣など幅広く考えられます。

 ソシュールの話はこれくらいにします。

 「こうした同調行動はどのような生理的欲求に根ざすものでもなく、むしろ、一種の社会的ゲームとして成立していることに注目しておく必要がある。事実、このようなゲームがなりたつためには、いくつかの条件、つまり(典型的には)実験者との正対やたがいの注視、さらには成人の側が乳児のふるまいを誇張的・拡大的に反復すること、等々のゲームの条件が充たされなければならない。ゲームは、新生児期に見られたいくつかの原始反射が消失したのちも、かえってより強化されてゆくのである。」

 

 

 ゲームという言葉の使い方がやや難解な感じがするように思われるので少し説明します。諸君の好きなテレビゲーム、私も、魔界村やモンハンのように、のめり込んでしまったゲームはいくつかある。うまくできている。そのゲームやCGを作るときに用いるモーショキャプチャーという技術をご存じだろうか。体の各部にセンサーをつけて、歩く、走る、投げるなどの動きを記録する。それをアニメーションやCGのロボット等の動きとして取りこむ技術である。このときセンサーの動きを調べてみると、人間の動きは、「あるパターンをもって動いていること」がわかるそうだ。



このモーションキャプチャーによって、赤ちゃんの動作というものを記録してみると、いくつかのパターンが見つかり、同様の結果が得られるそうだ。赤ちゃんの手足の動きを撮影してみると、日々、同じようにただ手足をばたばたさせているように見える。ところが、日を重ねるにつれて何の規則もなく動いているように見えていたものが、一つの流れを持ったなめらかな動きになっていくことがわかるそうだ。動作はある決まったいくつかの型を作っていく。赤ちゃんはその後、歩くこと、ものをつかむことなど次々と繰り返し、一つの流れ、リズムを手に入れていくと思われる。この上に述べられている同調行動は一つの認知に基づく行為として書かれている。

 

 

 さて、ウィトゲンシュタインという哲学者がいる。彼が「言語ゲーム」という語を初めて使ったのではないかと思うのだが今現在では、この考え方が広がりを見せている。人は自分の思い通りに自由に生活しているように考えているが、実は人は、今までの生活の中で身についた「あるリズム」にそって行為しているに過ぎない。このリズムは行為であって、経験の反復(習慣)の中で身につけていく。ウィトゲンシュタインは行為は社会環境の中で他の人のリズムと共鳴して身につけていく、一つの文化であるとする。会話は限られたリズムの共鳴として収束し、言語ゲームとして成立しているに過ぎないという。この説明では、わからないかもしれない、申し訳ない。

 

 

例えば「雨が降ってきた」この表現は、「雨が降っているという現象・文脈」と「話している言葉」が一致することで成立する。ところで、この表現は同時に「さっきまで晴れていたのに」とか「今にも降りそうだったけれど、やはり」という状況説明も意味に含ませることが出来るだろう。つまり「言葉」は一つの体系を持っていて、その言葉が使われる状況によっていろいろな意味を持つわけだ。

感情の表現や感覚の表現も同じであり、そのそれぞれが特定の状況の下で、一つの完結した意味の体系となることが出来る。ウィトゲンシュタインは、私たちが日常の言語活動が可能なのは、「言葉が使用されている社会の中で今までの生活の中で身についた「あるリズム」に沿って行為しているからだ」と言う。これを彼は「言語ゲーム」と呼んだわけだ。

 

 



 諸君は家の法事などでお経を聞いたことがあるだろう。あのお坊さんの念仏の基本は反復だ。正直、若い僧は意味のわからなまま、お経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。学び、宗教の教えを理解することも僧にとっては大切なのだが、お経の基本は練習し習慣化させることで身につけるものだそうだ。ウィトゲンシュタイン風に言えば、お坊さんたちは念仏を通して「言語ゲームに深く引き込まれていく。」教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りの世界が広がるわけだ。

この意味では「言語ゲームとは生活を創り上げ、また反映する一つの形式である。その規則は、諸君が友人や家族や先生たちと一緒に生活している中で自と身につくことになる、知らず知らずのうちに体の中にそのルールが内在していく。言語は他の人に向かって働きかける行為であるととらえれば、言語は文法によって身につけるものではなく、会話によって、日常生活や慣習によって身につけるものなのだろう。数学や英語が、外国での生活に役に立たないという批判も宜なるかなである。高校時代に模試で県順位1位だった生徒が、アメリカに留学し、途方に暮れた話は嘘ではあるまい。さらに、君自身が、自分で考えて決めたと思っている判断も、実は君の属する学校、家族、福井市、大野市、日本という集団の共通意識の中で作り出されたものに過ぎないとウィトゲンシュタインは言う。

ゲームという言葉の意味が「君たちの考えているゲーム」とは違うことが何となくわかってもらえれば十分だ。

マリノウスキーはかつて、単にことばを交わすことそれ自体によって、仲間どうしのきずなが つくりだされるような種類のことば」に注目し、「ことばによる交流phatic communion」という概念を 提起した。ヤコブソンは、これを承けて言語の「交話的機能la fonction phatique」について語り、その機能を、子どもが身につける最初の言語機能とかんがえる。交話的な機能とは、話し手と聞き手の接触にかかわり、会話の開始・持続・終止や、経路の確認などを可能とするはたらきのことである。」 

辞書を引けば、交話的機能とは「あるメッセージを語っているときに、そのメッセージが相手に届いているかどうかを確認するためのメッセージ」のことであると書かれているが、よくわからんだろう。電話の会話での「もしもし」自体はメッセージとしは無内容のように聞こえるが、これは「私のメッセージはあなたに届いていますか?」という「コンタクトの確認」のメッセージである。友人同士の会話などの場合は、ほとんど交話機能「だけ」で会話が構成されていることもあるだろう。「いい天気ですね」「ほんと、いいお天気」「あ、あの雲、何かに似てる」「ほんとに、何かに似てるわ」「いい天気ですね」「ほんとにいいお天気」この手のメッセージが自分に届いていることをもっとも確実に相手に知らせる方法は、「同じことばを繰り返すこと」なのだろう。(ちなみに、もしもしは「申す申す」が原型だ。)

「それは言語における非分節的な側面であり、音素や記号素と呼ばれる非連続的で分節的な言語の要素を、発話の韻律的なフェイズが縦断し横断化している」

先に述べたように「ラング」としての日本語が君たち全員に与えられているわけです。それらは音素と呼ばれる意味の区別できる音であったり、記号素と呼ばれる「あめ」とか「しろ」という音のかたまりとして諸君の心の中を漂っています。その「ラングが諸君一人ひとりの中で具体化し、表現として出てきたものが「発話」です。ソシュールは「パロール」と呼んでいるわけです。伝えたい内容が心の中に出来る。その内容を相手が理解できる日本語に整える。そして、リズムを持って諸君の口から、諸君の表現として内部から飛び出してくるわけです。もう少し、問題文の語句の解説をしてみます。

 記号素 
 「形態と意味とをそなえた、メッセージ構成上の最小有意味単位」と言われる。マルティネと言う人が二重分節を唱えた。第一レベルでは、ことばは意味がわかるレベルつまり表意単位によって分節され、第二レベルでは、弁別単位、つまり音素によって分節される。記号素は(ソシュール的意味での)記号であるが、それ以上に単純な記号連鎖に分析することの不可能な記号であって、ただ音素単位にのみ分析可能である。

 音素 
 意味を区別する働きを持った最も小さな音の単位を言う。日本語で「パン」 と「バン」は、それぞれ異なった意味をっている。食べるパンと車のバンだ。この区別をしているPとBはそれぞれ、日本語において独立した音素であるという。
また馬鹿という語句において、日本語では、[baka]と[vaka]は区別されないので、音素としては一つのみが存在しているということになる。英語では意味の区別に用いられており、[best]か[vest]では、「一番良い」「ベスト・服」という意味になり、[b]か[v]かとう一点で意味に違いが現れている。英語においてもBとVはそれぞれ音素であるということになる。英語でshit と sitのシの音は違います。音声学上も音韻論上も違います。でも同じ発音をする日本人は多くいます。日本語ではこの二つのシを音韻論上区別しないからです。つまり音素としては一つです。日本語にはガ行鼻濁音があります。地域によりこの音を発音するところとしないところがあります。しない地域では鼻にかからないガ行を発音します。音声学上は違う音ですが音韻論では同じ音素です。どちらで発音しても意味は同じです。学校で林檎の絵を描いた。がっこうで りんごの えを かいた。

 韻律 
 発話において現れる音声学的性質のことで具体的には抑揚あるいは音調、強勢、音の長さ、リズムなどを指します。字によって記録できない性質であるとも言われます。「おまえは太郎じゃない」が抑揚の違いによって意味の変わることはおわりでしょう。「そうですか」という言葉では普通に言うと「あいづち」で、ゆっくり言うと「納得」語尾を上げると「疑問」とうように意味が変わりますね。




2022年02月02日

現代文語彙16

 

2008年度 本試験 1 評論 語彙について

「私たちは昼と夜をまったく別の空間として体験する」空間


「空間として体験する」

この表現について考えてみよう。諸君はさまざまな方法で通学している。その通学路、あるいは通学手段の電車やバス、そして駅は君にとってなじみのある場所である。その場所の空間は、大きくてもせいぜい周囲数百メートルの円から出来ていると思われる。家、学校も円としての空間だろう。君の生きている場所は、いわば数多くの小さな円から出来ていて、その円と円の間は線でつながっている。円の数は成長するにつれて増えているだろうが、行動範囲の円の大きさはあまり変わるまい。この空間は身体を通して直接的に触れている具体的な空間である。目の前には机があり、先生がいて、黒板がある。それらと君の関係は、位置の関係や、君がそれらを認めるという認知関係だけだろうか。そういう事実の関係だけでなく、君にとって、君の周りに存在しているものは、ひとつひとつが君の生きると言うことに関して何らかの意味をもっている。生活している空間は、この意味で「意味に満ちている」だけでなく、空間そのものに意味が有ると言えよう。君は、この意味空間を生き、思考し、行動している。行動しているとは、空間を自分のものにしていることであり、行動することによって主体的な空間を作っている。この空間を体が直接ふれることのできる事物の存在する「感性的な生きた空間」と呼ぶことが出来る。
 時間も同じです。自分の誕生日は、君にとって意味ある時間です。時間も生活や意識と深く関わることで成り立っています。

 

 


「闇の中では、私たちと空間はある共通の雰囲気に参与している。」

次に上記の文の中の「空間」の意味を考えてみよう。諸君は生徒指導部の先生のおられる部屋がなんとなく嫌ではないだろうか。また墓地が好きという人も少ないだろう。具体的にそこが恐ろしい場所と言うことではなく、その場所が「人が忌むべき何か」と結びついた空間だから恐れるのだ。このことから人間は「感性的な生きた空間」だけを生きるのではなく言わば「幻想的な空間」をも生きていることがわかる。さまざまな信仰や畏怖の感情によって空間を区分けし、その性格を決定している。吉本ばななの父の吉本隆明のうちたてた概念に「共同幻想」という言葉がある。宗教や法や国家が共同幻想の例だ。国は実質的なシステムによっても、もちろん成立しているが、多くの人々の間で共通してもたれているイメージとしての側面も大きい。入学式の赤白の幕で覆われた空間は(将来の幸運をいのる場・共同体の神と出会う場所という定義)を持ち、黒白の幕で覆われた空間は(お葬式・死者の魂がまだその辺を浮遊している場所であるとの定義)を持っている。この空間を「幻想的な空間」と呼ぶことが出来る。
 近代以前、空間や時間のもつ意味は宗教や伝統を通じて私たちの間で共有されていました。神社の境内は誰にとっても神聖な場でした。元旦は、世界全体が一斉にリセットされた空間として迎えるものでした。

 

 

「しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行きが存在しない」均質化   脱呪術化  世俗化


 さらに上の文の「均質でのっぺりと広がった空間」「抽象的な空間」「地図のような空間」について考えてみたい。感性的にも幻想的にも区切られていない、密度も濃度も均質な空間である。現代は登山ブームだと言う。日本名山100とかをすべて登ることを目標にしておられる先生がいる。昔の日本では考えられなかったことだ。山はその麓に住む住民にとって神聖な場所であり、みだりに立ち入ってはいけないタブーの地であったはずだ。登山客にはそういう「幻想的な空間」は見えない。現代の登山が成立したのは「均質な空間」が成立した時以来だろう。君たちにとって学校は鉄とコンクリートとガラスで出来た箱形の均質な空間である。開発計画は山を削り、海を埋めて自然が均質な空間であるべき事を証明しようとしているようだ。均質的な空間のあり方を共有してきた結果が自然破壊であり、公害かも知れない。さらに君たちの内部にまでこの空間は広がりはじめている。内部の「均質的な空間」は新聞やテレビを通して知る空間だ。メディアを通し、君たちは世界の全く行ったことのない場所での出来事を、その出来事の起こっている国の人と、同じ時間に、同じものを目の前で見ていると思っているだろう。が、その経験はリアリティのない、現実味のない擬似的な経験である。本当に経験したかのように思いこんでいるだけで、嘘の経験にすぎない。日々の生活基盤である自分の「感性的な生きた空間」が縮小し、行動半径も小さいものでありながら、空間の意識だけは無限に広がり続けている。
 近代は、宗教的・伝統的な意味が失われた時代だ。神聖さや厳粛さはただの迷信だと思われるようになった。空間からも時間からも意味が剥ぎ取られることとなった。こうして人間とは無関係に存在する、無限で均質な空間が生まれたのだ。

 


「奥は時間的な要素を含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い」

 

 ここで「時間」と「間」についても考えてみよう。君たちは今、上級学校めざして日々頑張っている。時間を有効に活用しようとして、現在を将来の自分のための手段として使っている。限りある寿命でしかないことを忘れ、本当にやりたいことを我慢して生きている、現在を空洞化していると言っていい。受験勉強が、この意味で君たちにむなしさを感じさせることがあるかもしれない。

産業化された社会においては利潤の追求が第1に目指すべきものである。したがって製品を作る上でのコストは出来るだけ切りつめねばならない。時間も例外ではない。この価値観が生き方まで支配している。進歩、発展することを何よりも望む資本主義的な考え方にとっては、よけいな時間は無駄としか考えない。よけいな時間はマイナスの価値を与えられ、一分、一秒でも仕事を仕上げる時間を切りつめようとする。遅刻などは罪悪以外の何物でもない。

 

 

農業に従事している人々にとっては時間はプラスの価値観を持つ。生命現象と深く結びついた時間は、切りつめるべきものではない。私たち人間も生命体であるかぎり、時間を切りつめるべきではないと考えられる。職人仕事ではモノを作る過程自体が充実している。人目につかない隠れた部分にも磨きをかける。人々は市場で値段の交渉に時間をかける。交渉の過程自体を楽しんでいるかのようだ。時間は手段ではない。新幹線は速い。多くのレジャーが企画され、旅行はブームであるとも言えよう。しかし早く目的地に着くことが目指され、到着するまでの道程はなくても良いとされる。君が生まれて、成長し、結婚し、子どもを作り、老いて死ぬ。いかに効率よく、いかに短い時間でこの過程を実現するかを君は目指すべきなのだろうか。自分の人生よりも『子どもの教育』に熱心な親優しい先生は『子どもの自主性や創造性』を養うためのプログラム作りに一生懸命である。君たちは幸せなのだろうか。大人から与えられたものに対応するだけで時間を精一杯使おうとする君たちにはどんな将来が待っているのだろうか。

 


 私の子どもの頃には退屈することの出来る自由な時間があった。この有り余った時間こそが、子どもたちをさまざまなものへの探求に向かわせ、好奇心を育て、創意工夫の芽を育てるのではないか。子どもには子どもの世界があり、親は親の領分があり、親は子どもの領分に入り込むことは出来なかった。大人の干渉を受けない自由な宇宙で思う存分、好奇な目を輝かせながら、その世界を遊び回る、これは人生の予行演習であり、試行錯誤であり、模擬行動であった。このような準備をたっぷり持たないと、子どもは教育を受ける条件を身につけることが出来ないのではないか。いくら教育技術が進んでも、方法が進んでも教育される側の条件がそろっていなければ、何も生み出せはしないのではないか。

 


 今の私たちの生活の豊かさと便利さは確かに均質で無限な時間を前提として享受できている。この生徒には有効だが、こちらの生徒には使えないといった教育方法は使えない。日々の生活の中で、能率的、効率的であることを追求しながらどこか違うという感じを抱くのはなぜだろう。時間に染みついた人間の思いが無視されているからではないだろうか。私たちは時間を、自分の外にあると思っている。自分とは無関係に客観的な時間があると思っている。しかし、時間は本来、私たちの生きることと同時にあるものであって、自分の内部にこそあるはずのものである。生きていれば刻一刻と何かが変わる。変わることで時間を刻んでいる。自分の生きることと深くつながった主観的なものとして時間をとらえ直す必要があるのではないだろうか。

 



 さて「間が悪い」「間に合う」」「間がのびる」「間がぬける」「間違い」この「間」とは何か。剣道でも、「間」の取り方が大切だと言われる。能の世界では「生きている時間」であり「時計の時間」に対立している「芸術的時間」だと言われる。小学校の時の粘土細工を思い出して欲しい。あるいは料理を作る過程の中で君は主体的に行動している。作成に至るまでの現在の時間、それ自体が目的になっている。物が出来上がるまでの時間、この時間は切りつめられない。これが「間」である。

2022年02月02日

現代文語彙17

2008年度 追試験 1 評論 語彙について

 


 「眼で見ることではなく、概念によって判断することが我々の日常の精神活動を規定している。」「悟性は概念を用いて、混沌とした感覚対象を関連づけ、秩序づけることが出来る」

 

 「悟性」と言う言葉は英語ではunderstandingアンダースタンドです。この方が諸君にはわかりやすいのではないでしょうか。この「悟性」は学者によっていろいろな定義付けがなされています。たとえばカントという哲学者は「感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力」としています。ヘーゲルは「悟性は事物をばらばらに捉え、しかもそれらを固定化し、事物が運動や矛盾を含むものとして捉えられていない思考の能力」と言っています。このように、いろいろなとらえ方があるのですが、この問題文では「論理的な思考を行う能力」くらいに考えておけば良いと思います。


「概念」とは「あるものごとの抽象された本質を言葉で表した意味」と考えればいいのですが、よくわからないでしょうね。「具体」から考えましょうか。あなたの好きな男性タレント「キムタク」とか「スガ」とか、いろいろおられるでしょうが、「そのモノのあるがままの姿」を具体と言います。この具体的な男性を転送装置にかけてみましょう。原子レベルに分解して、その構造を解析します。次に転送して再度、実体を構成すると考えます。その際に、再構成する実体をいじってみることにします。キムタク・ヤマピー・遠藤憲一のどれにも似ているが、どの一人とも違うモノを作り出すことにします。その際に具体的な一人ずつの個性、例えば眼が二重とか、肌が白いとかをすべて捨て去ります。このことを捨象(しゃしょう)と言います。この捨象を通して、引っ張り出されたものを抽象物、英語でabstractアブストラクトというのはご存じでしょう。こうすることで物事の本質をはっきりと示すことが出来ると言われています。「男性この言葉はまさに抽象物です。この抽象された「男性」に関して「男性とは~である」という文を考えてみてください。その内容が「概念conceptionコンセプション」なのです。「そのものの持っている意味や価値」くらいに、この文章では考えればいいと思います。ついでに言えば「観念」とは「idea頭の中で考えたイメージや思い」です。「観念的」という言い方は「頭の中だけで考えていることで現実に合っていないこと」という意味で使われることがありますので注意してください。

「若きシュタインがまず批判しなければならぬと考えたのは現代におけるこのデカルト主義であったが、彼はそれを感覚の質的体験の回復を通して行おうとしたのである。」

 

「デカルト」については何回か書いているが、ここでまた復習を兼ねて説明してみたい。まず「数学」だ。諸君の中には得意な人も、苦手な人もいると思うが演繹の方法、つまり受験数学の基礎はデカルトが作ったと言ったら、どう思うだろうか。デカルトは「方法序説」と言う有名な書物の中で「方法的懐疑」という独自な思考を提案している。デカルトがまず疑いの対象としたのは、人間の感覚だ。水の中ではオールが曲がって見える。ご存じの屈折という現象である。がしかし、まっすぐな物を条件が変わると曲がって見てしまう、このように人間の感覚は頼りないものであるとデカルトは考えたわけだ。疑い続けて最後には、今生きている現実世界のすべての事物や事象が、あるいは夢かもしれないという所までデカルトは疑う。こうして出来た有名な言葉が「コギトエルゴスム・我思う故に我あり」である。そこでデカルトは絶対に間違いのない真実に至る方法を考えようとした。
① 独断と偏見を避けながら、自己が真実と考えたもの以外は受け入れない。
② 研究しようとする問題を、解決が容易な小部分に分割する。
③ 考え方の順序を、単純なものから複雑なものへと方向付ける。
④ 全体を見直してみる。
 これが有名な「方法的懐疑」ですが、数学の得意な諸君、どうですか。こうやって問題を解いていませんか。


さて、「いろいろなことは疑うことができる。事物や事象は不確実な事柄でしかないが、疑っている自己の存在、これは確実である。自己は疑うという思考の働きを本質としている。これは精神だ。精神がとらえる世界は物質だ。」としました。主観(考える自己)と客観(対象である事物)に分けるデカルト風「二元論」の誕生です。

 

 

 人間は精神を持つ存在だから、世界の支配者になるのは当然であり、自然はその支配の対象であると考えました。人間という主人・主体に、客体である自然は仕えねばならないとしました。主客二元論と呼ばれるこの考え方が人類の発展をもたらす科学の基礎となるわけです。でデカルトは次に「主観としての認識つまり主体の中での像・心の中のイメージ」と「客観としての認識対象・実際に見えている物」が一致しているかどうかをどのように確かめるかという問題に取り組みました。もし、この人間の思惟と客観的な実在の世界がぴたりと一致していたとしたら、世界を完全に正しい形で認識できていると言うことになるからです。そのための方法が「方法的懐疑」です。


「表象生活における自我は毎夜睡眠状態を通してその自己同一性を否定されている。」

「表象」は心の中に形として浮かんでいるもののことでありイメージだと思ってください。これまた言語学の用語としての使われ方だと思います。

 

 


 生物の授業で分類を学んだかと思います。「生物」という全体をまず考え、これをまず「動物」と「植物」に分ける。「動物」をさらに「脊椎動物」「無脊椎動物」「節足動物」と分けていく。「脊椎動物」をさらに「哺乳類」「爬虫類」と、「哺乳類」、最後に生物全体は「種」という「表象」に切り分けられていく。この「表象」は一つ一つが部品となって「生物の分類表」を構成する。こういう形で、教わった諸君は生物の世界が「切り分けて枠に整理されている」と思われているでしょう。表象と表象とが支えあって世界全体を構成している「かのように思わされている」のです。いま「思わされている」と書きましたが、「生物世界の切り分け方」は他にも考えられるので、これは切り分け方の一つに過ぎないのです。分節の仕方が変われば、おのずと見え方も変わる、すなわち「表象」のありようも変わります。

 

 

「表象」というのは、「あるものを見えるようにするもの」でありながら、同時に「他の見え方を隠してしまう」という作用をも持っているわけです。「虹」について考えます。日本では七色です。英語では六色です。五色、十色の民族も多いそうです。人間の目に見えている自然現象としての「虹」は同じものです。なのに、国によって「色の分け方」がちがう。「同じ現象を切り分ける、その切り分け方がちがうのだ」ということです。私たちは日本語というラングの世界で、一つの見方、考え方を知らず知らずのうちに強制されているともいえるでしょう。諸君はある物を「イメージする」ことで「対象」として見えるようにし、自分との関係の中に組み入れます。一日、一時間、一分、一秒これらは自然界にもともと存在したものではなく、人間が生きるために作り出した「表象」です。「あと10分しかない、よし集中しよう。」しかし、この行為を通して、実は、事物をあるがままに見ているのではなくて「自分が見たいように見ている」のではないだろうかという疑問が背景にあるのが、問題文の筆者の表象生活という語の使われ方だと思います。私たちは自由に加工・操作できるものとして見ようとして生活を見ている。「現実生活の対象」はそのように見えてくるわけですが、しかしそれは「あるがままの現実の姿」とは違います。単なる「イメージの錯綜する世界」を生きているとでも言いたいのでしょう。

 

さて諸君は、現在、子どもから大人への移行期にいる。諸君の自我は幼い頃から夢見てきたいくつかの自分の未来像の中から、あるいはそれ以外の未来像から「成長した自分にふさわしいもの」「自分として納得できる未来像」をあらためて自覚し選択しなおす時期にいる。青年期の自我は、自分が生まれ育った環境、平成という時代・社会が提供する価値や規範、役割、権威のなかから、「自分の自己同一性と考えているもの・自分はこうあるべきだという姿」と一致するものを意識的に選択しようとする。(どこの大学の何学部の何学科に進学する、これが当面の課題だ。)幼い頃から、諸君は選択の繰り返しを通して自分のあり方を選び取ってきた。複数の「・…としての自分」男としての自分・長男としての自分・ひまわり組の自分・開成中学の生徒の自分・大野高校の生徒の自分・山田君の友人としての自分。諸君は、それぞれの状況に応じて一定の社会的役割を果たすことによって「今の自我」を確認し検証してきたのだ。また、今の自分と幼稚園時代の自分とは何らかの形でずっと継続してきていると信じている。存在してきた時間の違いはあっても、自分の自己同一性は連続しているという直接的な感覚を持っている。また他者である家族や友人が自己の同一性の連続していることを認知しているという事実も確認しているはずだ。
今、諸君は特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと、大学に合格し、将来が約束されている自分に向かって発達しつつあるという確信を持ちたいが為に受験勉強をしている。

 

 

 さて本文の「睡眠状態」の話に移ります。寝ている間に見る夢に象徴されるものとは、無意識の世界観である。そう言ったのは『フロイト』と言う人です。目が覚めている時、現実を私たちは生きています。しかしながら、現実の世界でかなえられる願いはわずかなものです。頭のいい人にはかないません、劣等感に苦しむ心の健康を維持するためには、良い夢を見るしかありません。夢が現実世界の不備を補い、心を慰める機能を持つため、この苦しみは最小限におさまります。夢の内容を苦しむ人間の願望を充足する要素として捉えたフロイトは、「現実世界の表面に現れている私の意識以外のもの」、より率直な欲求を知るために重要な情報をもたらすものとして、夢の世界に立ち現れる表象の有り様に注目するようになりました。これが、フロイトの夢分析です。
睡眠状態すなわち「夢の世界での自己」は同じ自分でありながら「現実世界の自己」とは一致しません。「現実世界の自己」が実感の伴わないイメージとしての自我であればあるほど「夢の世界での自己」とはまったく違うもの、正反対の存在である可能性は十分考えられます。

 


だから我々は思考的存在になればなるほど、より普遍的になってくる。

「普遍」は英語でuniversalユニバーサルです。これまた英語の方が諸君にはわかりやすいかと思います。どの時代でも、どの場所でも成り立つことを意味しています。


「一体人間以外のいかなる動物にそのような純粋感覚体験が与えられているだろうか。」「我々高次の感覚、視覚や聴覚には、自然科学が見過ごしてきたひとつの客観的認識能力がそなわっているのではないか、というゲーテ的感覚論を」

 私たちが生きている時代をつくりだした世界観、近代の世界観は「デカルト」から始まると言われる。人間の理性には、客観的な真理が宿るとされた。人間は理性的な動物である。人間は限りなく進歩する。だからヨーロッパで生まれた文明が唯一の基準であり、他の世界はヨーロッパ的な世界を目指し啓蒙されるべきである。そう考えられていたわけです。地球のほんの片田舎にすぎないヨーロッパ世界が世界基準である、そう思い込まされたわけです。


普遍性・論理性・客観性これらはまるで神のような絶対的な価値として受け取られ、合理主義は月にまで人間を到達させた。近代科学は否定できない絶対的なものとして考えられてきた。ところが、現在、巨大な技術や社会制度が生み出したさまざまな矛盾が噴き出し、あるいは被害を被るようになってきた。「デカルト」的思考のもつ問題点は、現在に始まるわけでなく、早い時期からさまざまな問題点が指摘され、乗り越えようとする試みがなされてきている。先に他の問題の解説で述べた「ニーチェ・サルトル・フッサール・レヴィストロース」などは、新しい視点によりさまざまな考察を展開している。

 

 


さて純粋感覚体験の話をする前に、「最近の北朝鮮の動きやロシア、中国についての話題」が小論文にも扱われているようですので、同じように「デカルト」的なものを乗り越えようとしたマルクスについて少しお話しします。
二十世紀を特徴付けるものに共産主義運動があります。「デカルト」や「ヘーゲル」の考えは頭の中だけで、物事を考え体系を作ろうとするだけで、現実社会に働きかける有効な手段を持っていないと批判した人に「マルクス」という人がいました。法学、哲学を学んだ後で、彼はイギリスの産業革命後の資本主義社会を分析することから社会の未来を考えようとしました。簡単に彼の考えを箇条書きにしてみます。
① これまでの人類の歴史は「自由人と奴隷」「貴族と平民」「領主と農民」「親方と職人」「封建領主と資本家」の闘争である。
② 今の資本主義制度のもとでは労働者は団結するしかない。
③ 労働者が資本家を打倒すれば、工場などがみんなの共有となり、そこから得られる利益を平等に分配できる。やがては国家が 消滅する。
 この過程を「革命」と呼び共産主義への移行を訴えました。マルクスを学んだ毛沢東が中国を生み、北朝鮮を誕生させ、マルクスを学んだレーニンがソビエト連邦を生み出すことになりました。マルクスの考え方には貧富の差をなくすだけにとどまらず、真の自由についての体系的な構造を持っており、またそれを実現する運動の方針が示されていました。資本主義の持つ矛盾を克服する指針として多くの人々に受け入れられました。が、現在、事態はマルクスの予想したようには推移せず、世界にさまざまな課題をもたらしているようです。

 

 

 では純粋感覚体験の話に戻ります。また余談になりますが、この問題文を読んで啄木の歌を思い出しました。無防備に投げ出された自我が透き通るような青空に吸い寄せられて限りなく希薄な存在になり、大空に広がっていく。そのとき生命は無垢の輝きを放つ。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心」問題文中の「まるで自分で大自然とひとつになり、大自然の委託を実現しつつあるような内的必然性をともなった自由で大らかな感覚」とは、まさに啄木の感じたものではないでしょうか。諸君は今、受験という現実の壁と言う乗り越えるべき課題にぶつかっている。本来の自我は、かたくなに殻に閉じこもりつつ、その内部で未成熟なまま叫びを内に秘めつつ圧縮されていることでしょう。その自我が解放される瞬間が必ず来る、そう信じてがんばりましょう。

 

 


  さて、精神・身体というデカルト以来の心身二元論に関して、メルロ・ポンティという哲学者は身体は対象でもあり自己自身でもある両義的な存在であるとして身体を再度とらえなおそうとしました。身心一元論とでも言いましょうか。精神による身体の統御を説くデカルトに対して、身体の精神からの解放を説く流れです。メルロ・ポンティの身体論をきっかけにして身体に人間性復活の手がかりを見いだそうという流れが登場してきます。
この問題文の筆者の言う「純粋感覚体験」もおそらくこの身体の復権を主張する「身体論」の流れの中にあるものだと思います。「純粋感覚」という表現の「純粋」とはカントの用語でしょう。つまり感覚のうちで「経験」を一切含まないもの、生まれつき人間が備えている「感覚」のことであると思われます。

 



2022年02月02日

現代文語彙18

2009年度 本試験 1 評論 語彙について

「子どもたちが普通の隠れん坊をすることはほとんどない

 

 先日、就職の挨拶に訪れた卒業生がいた。その女性の、幼い頃のかわいい少女の顔が浮かんだ。鳥や花にその子は話しかけていた。まるで世界と交感しているかのようだ。何よりも今を生きている。そんな感じがした。教師としての私は、今日に至るまで生徒たちに何を与えてきたのだろうか。未来の大人としての役割を期待し、抑圧と監視の目を光らせてきただけではないのか。遊びの場を次々と奪い取り、その生命力を萎縮させてきたのではなかったか。「雪融けや村一杯の子どもかな」という一茶の句を思う。


 さて、子供という概念(おおむねのねん・物事の意味内容・考え方)は昔からあったものではなく、近代の成立によってもたらされたものである事をご存じだろうか。昔からもちろん「子ども」はいた。近代以前には「子供と呼ばれる期間」が存在していなかったと言うことだ。子どもは「小さい大人」と見なされていた。自分の用が自分で足せるようになると「若い大人」と見なされた。仕事も遊びも大人と一緒にしていた。

また、遊びと労働は、かつてはよく似たものであったのが、近代になり、資本主義の発展とともに、分割されることになる。同時に子供と大人の分割がはかられた。子供を大人の前段階の発展途上の人間としてとらえようとする動きがあらわれた。大人の社会は秩序社会であり、子供は反秩序・無秩序を代表するものと考えられ、教育により秩序社会に組み込もうとするものとして、近代的な学校という制度が誕生した。「子供」がいなかったとは「子ども」を特別な存在として認識するようなパラダイム(認識の枠組み・ある時代の科学者に共有されている思考や行動の基本となる立場・視点)がなかったということだ。そのパラダイムが出来て、そこで初めて子どもが「大人の対立物」と見られるようになったと言うことだ。


「子ども」のように近代になって見つけ出されたパラダイムは他にもある。いくつか紹介しよう。諸君の中には、今までに問題集や模試等でこの中のいくつかのパラダイムを扱った文章に触れたことがある方もいるだろう。

 

無意識 
 フロイトは「人間を支配しているものは『自分自身・自我・主体』ではなく、自分でもどうにもならない無意識である」と述べている。更級日記の作者が夢によって現実を解釈する場面を覚えておられるだろうか。フロイトは、逆に夢を、何の変哲もない現実の日常性の延長として分析し解釈してみせた。

 


女性
社会的に作られた性差(ジェンダー)という言葉は現代社会の授業等で既習だろう。近代になって女性が初めて男性と対等の人間と見なされた。それまでは女性を育児と家事をするものとして家の中におしこめ、男性を労働領域におしこめる形での性差別にもとづきこの社会は発展してきた。かつての家族制度の有していた強さは家庭にはなく、愛情や情緒といったもろくて壊れやすいものに支えられているにしかすぎないのが現代の家庭であると言ってよい。政府や会社は家族手当、配偶者控除等を整備して今なお、女性を家庭領域に封じ込めようとの努力を続けている。結婚したら女性は家庭にという考え方は、あいかわらず根強い。キャリヤウーマンと呼ばれる女性たちが結婚しないで社会に留まろうとするのは当然だ。女性の地位が会社の中ではまだ十分認められているとは言い難いということもよく聞く。

 


狂気
 近代合理主義は理性(合理的に考え判断する能力)を唯一にして普遍的なものだとした。理性の生み出した近代産業社会の価値観は「理性と狂気、正常と異常」という区分原理を生み出した。一生懸命労働する者(真面目に勉強する生徒)・経済的な有用性を持つ者(合格する生徒)は理性を持ち、健全であり正常であると呼べる者である。怠惰である者・無為の者・経済的に無用と思われる者(合格する能力のない者)は狂気を発しており、異常であるという分割原理が近代産業社会の価値観によって設定されたのだ。理性に反するものはすべて狂気であり健全な市民社会から隔離し、排除すべきものと考えられた。ミシェルフーコーという哲学者精神的な病(狂気)が「管理し、治療すべきもの」として認識されはじめたのは近代になってからだと述べ、狂気が忌むべきものであり、必要以上に恐れの対象となっていることを指摘した。さらにフーコーは人間の根源的な自然として狂気は誰のうちにもあるものであり、異常とされるのは、日常生活におけるルールあるいは秩序を破って現れた私たちの根源的自然の姿だとしている。

 

野生の思考
 『「野蛮人」が、いままで人が好んで想像してきたように、動物的状況をやっと脱したばかりで今なお欲求と本能に支配され続けの存在であったことは、おそらくない。また、情意に支配され、混乱の中に溺れてしまった意識でもない。」「私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を高めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。』レヴィストロースは著作でこう述べている。鬼の面、ミノを身に付け、大きな出刃包丁を持ったなまはげが家々を訪れ、「泣ぐ子はいねがぁ」という大声を発し暴れ回る秋田の風習をご存じだろうか。このような呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく「野生の思考」と呼ぶべきものであるとストロースは言う。近代合理主義に見られる「科学的思考」は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された「思考」にすぎない。未開人は知性が未発達で合理的な思考ができず、非論理的な呪術的思惟にとらわれている――このような偏見に対し、いかなる社会もそれぞれに固有の価値の体系を持っていることを指摘し、自分たちの尺度で他の文化に対し優劣を論じることに異議を唱えた。

 

「隠れん坊は人生の旅を凝縮して型どりした身体ゲームである」

経験
 かくれんぼうの本質は、空白の広がりの中に放り出される孤独の経験、世界が変貌する砂漠経験であると言われている。隠れん坊の鬼になって何十か数える間の眼かくしを終えた後、さて仲間を探そうと瞼をあけて振り返った時、目の前や周りに誰もいない経験を恐らく君も忘れてはいないだろう。仲間たち全員が隠れてしまうことはゲームの約束として百も承知のことであるのに、それでも誰もいない広場の中に突然一人ぼっちの自分が放り出されたように感じるはずだ。諸君の中には、卒業後、他県の上級学校に進学する人も多いだろう。新しい土地、そこでの君は孤独だ。でも立ちつくしているわけにはいかない。少しずつ手探りで人間関係を作っていかねばならない。隠れん坊を繰り返す過程で、本人が気づかない形で経験の胎盤が形成され、人生の予行演習をしていることになると言うわけだ。『それは経験そのものでは決してないが、経験の小さな模型なのであり、その玩具的模型を持て遊ぶことを通して、原物としての経験の持つ或る形質を身に受け入れたに違いない。』「或る喪失の経験」(藤田省三、「精神史的考察」所収、平凡社)より

 

 

「陣になる木や石は、元来呪的な意味を持ち集団を成り立たせる中心であった。」

宗教 トーテミズム   アニミズム   シャーマン

 ここで少し「宗教」の話をしたい。宗教とは「神という存在」を前提とする思考体系である。「宗教」と呼ばれるシステムは、その神を中心として、自分が世界の中でどこに位置づけられているかを明確に示してくれる体系でもある。神の代弁者たちは、この世界がどのように出来ているのか、人間は何のために生まれて、どんなふうに死んでいくのかを人々に教える。もし、神を信じることが出来れば、悩みはなくなり、生きる道も見えてくるだろう。

 

 諸君は自分は神は信じていない、無宗教であると考えているという人が多いと思うが、知らず知らずのうちに「宗教」行動をとっていることをご存じか。初詣、お墓参り、クリスマスという行事を通して諸君は何らかの行動をしている。これらは明らかに宗教行事だ。神社にある「ご神木」には神が宿っている。特定の動植物や自然物を自分たちの社会集団の象徴として用いることをトーテミズムと言う。虎キチ・タイガースファンもいわば宗教集団だ。シャーマン卑弥呼が神との交流を通して邪馬台国を導いたと言われる。日本はもともと「八百万神」を想定している。豊かな自然を背景に、すべての物に神性を感じる素朴な自然崇拝アニミズムであり多神教だと言われている。日本人は現在も多神教的な状況で生きているとも言えるだろう。

 

 これに対して唯一絶対の神を信じるキリスト教などの一神教は厳しく単調な自然に生きる人々が創出したと思われる。一神教では本来、他の神の存在は認めない。ヨーロッパも古代ギリシャ・ローマの時代は一神教ではなかった。人間を支配する絶対的な神ではなく、自然や生活と結びついた人間に近い神であった。古代の人々は神を中心として人間と自然が結びついた一体性のある世界で生きていたと思われる。言わば神話の時代であった。

 

 

 ところが奴隷制の下、ありあまる時間の中で多くの哲学者が出現した。神話の説明だけでは世界のあり方に満足できない知性の持ち主が現れた。この世界を越えた所に、世界の根拠を求めようとする世界観が生まれたのである。この言わば世界を二つに分ける二元論的な世界観が、今後の思想の歴史に大きな流れを作り出すことになる。ヨーロッパ世界はローマ帝国の発展に伴って地中海沿岸からヨーロッパ全土に広がっていく。その動きにあわせてキリスト教が広まり、絶対神、その神の代理である教会が人間を支配する中世の時代が始まる。ヨーロッパは全体として日照量が少なく土地も痩せている環境であり、その中で生きるために村の一員であることが絶対条件だったろう。その人々を精神的につなぎ支えたものがキリスト教であり、教会であっただろう。したがって神が絶対的な力を持っていたのは当然であり、封建制度のもと、各君主が教会活動を最優先したのは必然であったと思われる。宗教が国家をつくる原理として機能していたとも言えるだろう。

 

 

そんな中世の人々の勤勉さと封建領主の領土拡大の意欲とが広大な農地をヨーロッパにもたらした。この事と大航海時代そして産業革命を通しヨーロッパの人々は豊かな暮らしを手に入れていく。かつて神は人々の貧しい生活を支えて来たが、厳しい自然を理性の力で克服したと考える人々にとって神や教会は邪魔な存在に変化した。デカルトの言う理性が、宗教的な意味をはぎ取り、宗教から人々を解した。(このことは呪術化であり、宗教的価値観から離れることは世俗化と呼ばれる。)今の日本では道ばたの地蔵が人々から忘れ去られ、崩れ去るにまかせられている。これと同じ現象が当時のヨーロッパで現出した。近代以前は個人の自由度は少なかったが、村や共同体が守ってくれた。近代になり、むきだしのまま国家と向かい合う自分「個人」が誕生した。それまで個人の欲望や所有は、神の名のもと、社会的に制限されていた。その神の束縛から逃れ、個人として自由に活動することを人々は望むようになる。教会や村の制限から逃れようとする人々に対して、神に変わるものは理性であった。自分たちの知恵や努力が豊かで便利な生活を生み出したという自負が市民社会、近代という大きな時代を生み出していく。

「これらすべての身体ゲームが共通のコスモロジーを持っている」
 

コスモス   コスモロジー
「コスモス」宇宙と訳されることはご存じだろうが、この言葉は「秩序」とも訳される。「秩序」は一定の順序に従って物事が結びつき調和を保っている状態を表す。私たち人間の社会が秩序を持ったものであることから「コスモス・宇宙」とも呼ばれることがある。この宇宙という秩序コスモスが、どのように生まれ、どのような構造をしているかを「論理・ロゴス」で考えるということでコスモロジーという用語が出来ている。デカルト風二元論の話を以前、少し書いたが、この二元論の克服(自然と人間・主観と客観・理性と事物)を目指しパラダイムシフト(認識の枠組みの変更)を考えるときコスモロジー(この社会の構造をどう捉えるか)という用語がよく使われる。


 私生活主義   個人主義 個人  家制度

 

 あなたは「個人主義」について学んできただろう。「個人」は一つの人格・個性を持つ存在であるべきとも学んだはずだ。近代以前の時代には厳密には「個人」は存在しなかったと思われる。近代以前の「人」にとって重要なものは生産の場としての家であり、その家では米・野菜・味噌・醤油に至るまでを家族単位で生産していた。家族の構成員が全員役割を持っており、この形態が制度的にも保証されていた。家制度がそれであり、家長は絶対権限(結婚・職業の選択にまで及んでいた。長男のみの特権)を有していた。

 

ところが近代(明治時代)となり、資本主義が導入され、発展していく過程の中で多くの工場労働者が都会で必要とされるようになった。次男・三男の都会への流入・消費の場所としての家庭を都会に営むこととなり、家庭は生産の場ではなくなる。個人の「私生活」が中心となる。生活に必要なものはすべてお金を払って手に入れることとなる。物に働きかけ、生産する存在であった人々の身につける物はことごとく製品として買えるようになった。家制度は現実の生活のスタイルとずれはじめる。戸籍の上では君たちは、保護者の家に属しているけれど、将来は独立して都市で非定住の消費生活を送るはずだ。都市にとどまって小家族を形成して、お盆や正月に帰省するだけといった生活になる。家制度のもとでは「個人」は家族のための労働者であり、家での役割は重要であった。現在では大家族、家制度は産業構造の変遷とともに崩壊したと言えよう。企業にとって家族を大事にし、ふるさとを愛する人間は正直困る存在だ。どこの支社でも働いてもらわなければならない。理想を言えば、すべてがバラバラの個人の方が使いやすい。この「個人」は流動する市場に直結されており、流動に見合う教育が要求され、多数の人々の孤立的な存在を社会として許容せざるを得ない状況が生まれている。

 


 競争民主主義  母性原理
  先日、久しぶりに東京の駅に降り立った。やかましい場内アナウンス・派手な看板。私と同じ車内から押し出された人々が競歩し、衝突しながら怒濤のように流れていく。その流れの中にあっては、誰も自由には動けない。完全に流れに制御されているにも関わらず、他人を押しのけなければ自分の存在が維持できない。肩や肘をぶつけ合いながら人々はすさまじい競争を演じている。自己主張の権化のようだ。老人や弱者に対する配慮など例外でしかないように感じる。

 この姿を生み出している物は競争社会における「生のエネルギーの肯定」だ。人権や法の下の平等は人間が長い間かかって獲得した理念である。だが、人権は確保されているだろうか。その平等の内実はどうであろうか。が社会は何らかの形で人々を組織し、序列を作らなければならない事も事実である。誰でもやれば出来るという能力平等観に立てば、学歴という序列偏重に偏らざるを得ない。戦前までの日本は母性原理社会と呼ばれていた。母性原理は場所の原理であり、その場所、集団、家族に属しているかいないかが、個人にとって決定的な要因になる。子供を分け隔てしない両親のように融和がその集団では何より重んじられる。これに対して、父性原理は個人を重んじる原理であり、個人が何を望んでいるか、個人がどう成長するかに重きをおく、成績の振るわない生徒を徹底的に教育し、出来のよい子は才能をどんどん伸ばそうとする力が働くこととなる。君たちは都市生活者の価値基準たる学歴の有無を獲得するための役割を担う存在に変化している。親は子供の教育に熱心にならざるを得ないし、塾等の存在も欠かせないものになっている。

 

 


 産業社会型の管理社会 
 私の子どもの頃には嫌と言うほど退屈な時間があった。大人は子どものことなど見向きもしない。子どもには子どもの世界があり、大人の領域があった。思う存分、好奇の目を輝かせ、子どもの世界を遊び回った。隠れん坊に限らず、すべての遊びは人生の予行演習であり、プログラム作りであり、試行錯誤であり、シュミレーションであった。正直、今思うと生命の危険と思われる場面も何度か経験した。君たちの親御さんは教育に熱心である。子どもの視線を大切にしつつ、自主性や創造性を養おうと努力されている先生方も多い。ある意味、君たちは幸せだ。

 が、本当にそうだろうかという疑念が浮かぶことがある。時間は出来るだけ切りつめ効率よく消化されるべきものという産業社会の価値観により君たちは育てられた。時間が個人の物でなく社会の所有になってしまったとも言えよう。大人から与えられたものに対応するだけで時間を消費する諸君にはどんな未来が待っているのだろう。人間にはグライダーとしての能力と飛行機としての能力があるという。受動的に知識を受け止めるのがグライダーであり、自分で物事を発見し、発明するのが飛行機だ。グライダー能力が無くては基本的知識すら習得できないだろう。だがグライダー能力しかなくて飛行能力が全くないと思われる優等生が多いような気がする。 また産業社会は「季節」を時間に『土』を土地に、といった読み替えをする過程で「季節の移り変わりを肌で感じる人間」をなくしてきたのではとも思う。いや「自然」を資源と読み替え「人間」は労働力や消費者と読み替える社会にあっては当然のことなのか。風俗と呼ばれる産業で女性という性が商品化されている。あらゆる物を産業社会は商品化する。商品化されるとともに人も自然もその豊かな表情を無くしていく。

 

 

 身体ゲーム  デカルト風二元論
デカルト風二元論の話を続けよう。デカルトは世界を「精神と物質という二つの実体から出来ている」と考えた。人間は精神を持つ存在だから、世界の支配者になるのは当然であり、自然はその支配の対象であると考えた。人間という主人・主体に、客体である自然は仕えねばならないとした。見ている私が「主体」であり、私が見ている相手は「客体・対象」というわけだ。主客二元論と呼ばれるこの考え方が科学を発展させる基礎となった。諸君がよく聞くであろう「主観・客観」の語の意味は「主体としての私個人の見方・客体としての私以外の人たちに共通する見方」くらいに考えておけばいいだろう。ところでデカルトは目の前の石ころを見るという行為を二つの側面に分裂させた。一つは目の前の石ころを見て、これは石ころだと考えている「心の中での石ころの像」である。もう一つは、認識されるべき対象としての「石ころそのもの」である。


 でデカルトは次に「主観としての認識つまり主体の中での像」と「客観としての認識対象」が一致しているかどうかをどのように確かめるかという問題に取り組んだ。もし、この人間の思惟と客観的な実在の世界がぴたりと一致していたとしたら、世界を完全に正しい形で認識できていると言うことになるからだ。
 この心の中の像は「疑おうとすればいくらでも疑える」このデカルト的懐疑と呼ばれる思考の果てに彼は「疑っている自分の存在」を発見し「コギト・エルゴ・スム・我思う故に我あり」となったことは有名だ。


 デカルトの限界は、この一致を神によって保証されているとしたことだ。神が「人の判断力」を誤ったものとして作るはずがないとした。この論に対し「一致はあり得ない」とイギリスのロックやヒュームが反対する。ドイツのカントも「一致はあり得ない」としながらも、同様に人間の認識のあり方を「現象界」と呼び「物自体」の世界との二つに分け説明する。その「現象界」を人間が経験できる認識の領域に限定すれば、人間は生まれつき持っている共通の認識能力があり、その共通性によってそれなりの客観性が取り出せるとした。石ころの見え方は、「みんな同じだ」と言うことだ。このカントの二元論を「静的なとらえ方」として批判したのがヘーゲルである。人間が対象とする物は、あらかじめ絶対的な客観的な物としてあるわけではない。人間がその対象に対して働きかけ、そのことで対象が逆に人間に対して様々な形をとって現れる。このような主体と対象のダイナミックな関係を「弁証法」と言う。まだまだ説明したいが、この辺で二元論の話を中断したい。大学での一,二年生の一般教養で学べるはずだ。


 

 

 


身体
 本題の「身体」についての話題に移ることとする。二元論において「客観的に世界が存在する」とされた前提をいったん取り払って考え直すという試みがいくつか現れた。「まず客観的な物があって、それを主体・意識がどう受け取るかという認識の順序」に問題があるのではと考えた人がいたわけだ。私と君たちは同じように、ニュースの事件報道を見ている。しかし、私がみた事件報道と君たちが見た事件報道はずいぶん受け止め方が違ったもののはずだ。にも関わらず客観的に同じ事件報道が存在していると言えるだろうか。「客観的な世界」に対する確信を遮断すると残るものは「主体の意識」だけとなる。

 考えるべきことは「世界の像がどのように、その主体の意識の中に現れて確立されるか」という事になる。あるいは人間が「意識の中で客観世界の像をどのように構成し確立していくか」という点にシフトされた。人間を具体的に生きているその姿のままで取り出そうとした。この流れを創り出したのはフッサールと呼ばれる現象学の祖であり、フッサールの考えを受け継いでハイデガーやサルトルそしてメルロポンティが出てくる。このメルロポンティと呼ばれるフランスの哲学者の打ち出した考え方が「身体論」である。

 

 この2009年度の問題の筆者は実はこのメルロポンティの考え方を基本にして本文を書いていると思われる。人間が意味を構成していくその中心点を「意識」という場所ではなく「身体」という場所にメルロポンティは移し替えた。人は「身体」を通して直接、世界と繋がりあっているとした。私たちは自分の「身体」を普段は感じていない。空気のような物として意識している。ところが痛みとか疲れを感じるとき、いわば壊れたとき「自分の意のままにならない身体感覚」に気がつく。さらに自己の「身体」の内部を感じることは、胃痛でもない限りない。ある時、私たちが何かを自分の物にしたいと思うとき、身体はものを掴むという形で行為を支えてくれる。その同じ「身体」が、ある時には私たちが為そうとしている行為を押しとどめる。痛みは私の痛みであって誰も代わってくれない。痛みは私の痛みというより「私そのもの」となっている。

 「身体」が皮膚に包まれた筋肉と臓器の固まりに限定されるかというとそうでもないようだ。義足を付けている方は、義足の先で地面の形や堅さを感じているだろう。かつてオートバイを運転していた時、確かに私は地面の凹凸を「身体」で感じていた。身体の限界は肉体の表面ではなく、「身体」はその皮膚を越え、伸びたり縮んだりするのではないだろうか。教室の君の座席に他の生徒が座っていると君は不快感を感じないだろうか。「身体」全部においては鏡で見る以外は見える部分は少ない。にもかかわらず私たちは自分と「自分の身体」の関係に対して不安は持たない。なぜだろうか。実は私たちにとって「身体」とは「はっきりした境界をもった物質」ではなく「イメージ」だからだ。イメージだから、ある時は物質として自己主張はしないし、空気のように忘れられるし、拡大や縮小も自由自在だ。


「だが、その間隙をぬうようにして、同じ身体の慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある」

 身体ゲーム
「かん蹴り」を体験することは、視覚・知覚を含めた身体運動を伴う行為であり、その行為は常に身体、事物、人、自然、世界との交流を含んだ出来事である。また、その体験は、かんけりというゲームを構成する社会、そして参加する子どもたちとの感情の交流、認識の交換でもあると考えられる。私の経験と他の子どもの経験とが重なり合いぶつかり合う場所で、いくつかの経験のからみ合いによってあらわれてくる意味であると本文は述べる。ここで私の体験は他者の知覚と連なる可能性を生み出す。共通した主観、共通の体験として実現されていく。この開かれた体験のうちに他者や社会とのあり方についての認識が生まれてくる。経験が自らの価値、自らの位置、自らのなすべきことに気づかせ、私にとっての経験の意味を創り出す。もう一つのコスモスが姿を現してくる。この世界は胎内空間にも似た、相互的な共同性に充ちたコスモスであると筆者は続けている。

2022年02月02日

現代文語彙19

2009年度 追試験 1 評論 語彙について


 伝統という一般的な概念に三つの契機を挙げることが出来るであろう

概念  捨象  抽象   具体   伝統 契機
 概念という語句の説明をしよう。訓読みすれば概ね(おおむね)の念と読める。concept・コンセプトである。ものの意味内容ととってもらえばいい。「犬とは何ですか」と質問されて「犬とは○○です」と答える場合の、○○が概念だ。 ○○という言葉である と言っても良いだろう。この説明ではよくわからないか。



 別の角度から説明する。具体的concreteコンクリートという語句は「あるがままの姿」をあらわす。日常生活の中で出会う色と形を備えたものだ。私の家にいる「カメ」はミドリガメだと思って買ってきたものだが30センチ以上に育ってしまったカメである。アカミミガメである。私のカメは他の家のカメとは違うし、どこかの自然界にいるカメとも違う。私の声に応じてそばに寄ってくる。いつものカメ用の餌でなく魚の切り身を与えるとうれしいのかクルクル回ってみせる。世界でただ一匹のカメであり、名前は「カメ」だ。具体的な私のカメだ。
 諸君は「カメ」という語句を聞いて何を思い浮かべるだろう。私のカメではあるまい。それぞれのカメには細かな特徴があって一つ一つ異なっている。その細かな特徴を捨てて、甲羅とか、足が遅くてウサギに負けたとか、細かな違いを超えた共通したものを引き出す。このように個性を捨てて共通したものを引き出して手に入れたものは具体性が無くなるわけだから、分かりにくいものになるかというとそうでもない。桜、チューリップ、菊などの個々の特徴を捨てて、花びら、おしべ、めしべ、がくなどの共通する特徴に注目すると「花」ができあがる。この『花』は【花】というものの本質を表しているとも言える。この個々の特徴を捨て去ることを捨象(しゃしょう)と言い、捨象を通して引き出されたものを抽象物abstractアブストラクトと言われる。
 このものの持つ具体性を捨象し、抽象的になった内容が概念といわれるものだ。犬の抽象された本質を言葉で表した意味「四本足であり、尻尾があり、哺乳類であって人間の手によって作り出された動物である。古くから家畜化されたと考えられる動物であり、現在も、代表的なペットとして、広く飼育され、親しまれている動物」これが概念だ。
 ここで「三つの契機」という場合の契機は「きっかけ」という意味ではなく『要因・ものごとがそうなった原因』という意味で使われているようだ。つまり「伝統」と言われるようになった理由が三つあるくらいに理解すればいいだろう。受け伝えの作用のあるものが伝統であり、系統的であり脈絡的(一貫したつながりがある)であるものが伝統である。持続性もある。それが伝統だ、筆者はそう言っている。


個々の事象に関わっている。したがって伝統は様々な位相でとらえられる

事象 

この語句は数学の確率の時間に諸君は聞いているだろう。さいころを投げるという試行の結果からは一から六の目のどれかが出るという事象が起こる。試行の結果起こる事柄である。ある事情のもとで、表面に現れた事柄であり、現実の出来事はすべて事象とも言える。

 

位相 

この語句も数学用語と言えよう。topologyトポロジーと呼ばれる数学で、XとYとが位相空間であるとき、XよりYの上への一対一写像があり、fおよびその逆写像とがともに連続であるとき、XとYとは同位相であるという。曲面でいえば、球面と楕円面とは、それらがゴム膜からできているとするとき、破ったり貼ったりしないで互いに変形できるので同位相である。すなわち、理想的なゴム膜の切り貼りしない自然な変形は、同位相写像とみなせる。数学の苦手な諸君は何のことかわけがわからないだろう。要は自分のいる場所から見える様子をあらわす語であり、レベルとか立場とか言い換えても良いかもしれない。この部分の意味は「伝統はさまざまな現象と関係しているので、伝統を文化という立場、あるいは宗教という立場から考えることが出来る」ということだ。ところでよく似た言葉に『次元』という語句がある。空間の広がりの度合いをあらわす言葉だが、この言葉も『位相』とおなじくレベルや立場と言い換えられる。

 

 


ある集団のアイデンティティの成立と解体に関して

アイデンティティ  identity

 何度も出てくる用語であり、耳にタコができるくらい先生から聞いている言葉であろう。ここで再度、別の角度から説明しよう。『自己同一性』自分を実感することとされる。フランス語の『レーゾンデートル』という語句が自分を実感する語として使われていた。自分が存在する理由を確認することで自分の存在を証明しようとする、私の世代はこう主張するサルトルやカミユに夢中になった。学生運動の挫折の中で生きる実感をなくした学生たちは、近代化によって疎外された人間性を何とか取り戻そうとしていた。そして、この『raison d、etre』を使った。

 同じく生きる実感を得られない現代の諸君はアイデンティティという語に惹かれている。満たされすぎた生活の中でこの語句を使っている。自分を実感したければ、自分以外の人と関係を持たなければならない。小学校時代の君は、「今の君」から見れば他者だ。その他者が「今の君」を作り出したことは間違いない。大学に合格するという君の未来、未来の君が「今の君」に生きがいを与えてくれている。家族の中でリラックスしている君友人と一緒に話をしている君は明らかに違う自分であるはずだ。自分は変化している。根本的で変わらない「本当の自分」などいない。「今の君」があるだけだ

 ところで、なぜアイデンティティが求められているのだろうか。恐らくは個人という意識が大きくなりすぎたせいだろう。個人に目を向けるあまり、社会の一員であることを軽く考えるようになっている。「他の人に迷惑をかけなければ何をしようと個人の自由でしょ、先生。」「違う。」こんなことを考えているから、他の人との関わりが見えなくなっている、いや見ようとしなくなってる。単に他者と関わることでなく、他者との関わりを確実にすることが大切なのだ。ピアスをつける諸君は自分を周りの存在とは別であると協調したいようだが、実はピアスをつけている人はたくさんいる。そのピアスをつけている集団の中ではピアスをつけている人は、個性が無くなりその集団に帰属しているに過ぎない。誰もつけていない豆電球を頭に飾れば、立派な個性だが、誰も個性的とは言ってくれない。おばかさんであり、ただの変態としか言われない。個性は他者との関わりを無視した言葉ではなく、目の前のグループとは違う、別のグループに属しているという、いわば特権意識のことなのだ。江戸時代のように身分や職業といった社会的な枠組みによってアイデンティティが保証されていた時代には、衣服の流行やファッションなどには、あまり関心はなかったのだろう。ファッションにこだわる諸君ほど、自分が誰からも認められていないという危機感を抱き、社会において確実な位置付けをほしがっている人が多い気がする。頭を茶髪にしたら、今まで相手にしてくれなかった先生や友人が声をかけてくれたとうれしそうに話してくれた、いつも一人でいることの多かった、気の弱い、自分に自信を持てずにいた生徒を思い出す。


近代は個の自覚が形成され自立的な主体が確立された時期であり

近代
「近代」という語句が出てきました。もう今まで何度か説明してきましたが、日本は明治時代になり、アメリカやヨーロッパの影響を受けて近代化します。現代文の文章は明治以降の文章を扱いますので、近代ヨーロッパの考え方を知る必要があります。むろん近代ヨーロッパを形作った古代・中世の考え方も知っておけば理解が深まります。そこで、ざっとですが「古代」からお話しさせていただきます。


古代
『古代』諸君は世界史が必修だそうなのでギリシャ・ローマの時代と言えばおわかりでしょう。最近では「パーシジャクソン」の映画でオリンポスの神々は話題です。オリンポスの神々は私たちが普通思い浮かべる仏陀やキリストのような絶対的な存在ではありません。自然や人間の生活と結びついた神々であり、私たちと同じような考えや感情を持った神々です。当時の人々はそれらの神々を媒体として自然と自分たちが一体のものであると信じていました。雷は「神鳴り」でした。

 さて、「古代」では戦いに敗れ捕虜となった者は、生命だけは助けられて苦役につかせられました。これが奴隷制度の起源です。古代ローマでは、奴隷の数が市民より数十倍も多いという驚くべき規模に達していました。奴隷は消耗品ですから補充しなければならず、ローマは奴隷補充のために戦争を行ったとも言えます。世界史の習った(ラテフンディアム)大農場で大量の奴隷を酷使し、社会の生産力を確保していたのです。この奴隷制度を背景として考える時間を大量に手に入れた知性ある人々は哲学を始めます。オリンポスの神々のなせる業だという説明では納得できない知性が出現します。自分たちの理性(合理的に考え判断する能力)によって世界の成り立ちを模索し始めます。

 


 彼らは自分の生きているこの世界(生きている場所)以外のものに、世界を成立させている根拠を求めようとしました。この世を超越した何かを探そうとしました。この態度が、世界を二つに分けて考えようとする『二元論』を生み出します。
代表的な哲学者はプラトンです。真に存在するものは何か?プラトンは、この世界を眼に見える世界真に存在するイデアの
世界との2つに分けました。彼によれば我々は洞窟の中に幽閉された囚人のようなもので、光によって明瞭に現わされた真実
の世界に背を向け、その光が作る「影」を真実と思って暮らしているのだそうです。彼は知覚によって観察される個別の事象は、「束の間」でしかないからという理由で幻に過ぎず、一方、真実は「永遠に不変」でなければならない。そしてそれは、さまざまなものに影響される「知覚」ではなく、「理性」によってのみ見い出されるとしました。わけがわからないかな。身の回りには友情と呼ばれる人間関係はたくさん存在しますが、いずれも完全な友情ではないし友情そのものでもありません。しかし、これらの友情の背後には永遠不変で、完璧、かつ抽象的な友情のひな型であるイデアがあると考えるわけです。

 


中世
『中世』について説明します。ここでも支配的な考え方は神と人間という『二元論』です。ローマ帝国の拡大につれてキリスト教が広がっていきます。キリスト(絶対的な神)が人間を支配する世界が出現しました。神(代理としての教会)と神に支配される人間という上下関係が成立しました。
「神」の命令に従い人々は団結し、ヨーロッパの寒く日当たりの悪い痩せた土地に立ち向かいました。森林は広い農地に変わっていきました。反面、教会がすべてを支配し、教会の方針に従わない者を異端、キリスト教以外を悪魔崇拝、邪教、魔女と呼んで処刑した時代です。自白することが異端、異教の最大の証拠でしたので拷問が最も発達したのもこの時代です。神(教会)は教会や聖書の教えには反する考え方や学問を認めませんし、弾圧すらしています。

 


イスラム世界
 さてここで「イスラム世界」が登場します。七世紀に登場したイスラム教は実はキリスト教と「神」を同じくしています。神の声を伝えるのがキリストかムハンマド(マホメット)かの違いだけです。イスラム世界は急速に勢力を拡大します。聖地を同じくするヨーロッパ世界は、その奪還のためという名目で十字軍を組織します。十字軍の派遣の成果およびその負担やその失敗によって大きく変貌していきます。ある意味ではイスラム世界が「近代」ヨーロッパを生み出したとも言えるでしょう。

理性
『近代』大航海時代はご存じでしょう。パイレーツオブカリビアンの世界です。ジョニーディップです。貿易による収益だけではありません。農業も格段に進歩し多くの豊かな恵みをもたらしました。産業革命も始まり、さまざまな製品が大量に供給されるようになり、豊かなヨーロッパが出現しました。人々の貧しい生活を支えてきた神(教会)は不要となり始め、商人たちはむしろ、神の束縛から離れ、自由に富を追求することを求め始めました。神のおかげではなく、自分たちの知恵や努力、理性が、今の生活を生み出したのだという信念のもと、自由な活動を求め始めたのです。近代は「理性」の有無によって世界を二つに分けました。「二元論」は続きます。デカルトは「人間こそが理性を持つ精神的な存在」としました。当然のことながら「この世界を支配すべき存在は人間」なのです。自然は「理性を持たない物質的な存在」に過ぎないので「主体である人間に奉仕すべき家来(客体)」であるとしました。人間が自然に働きかけ、自分に都合の良いように作りかえるのは当然の権利であり、そのための科学技術は正当化されました。人間理性が絶対化され、いわば人間を自然と切り離しました。

 

 


新しい知を生み出すためには歴史的連関が必要であるが、科学の知そのものは基本的に非歴史的である

科学 天動説・地動説  コペルニクス的転回  
事実の積み重ねに思考の重点を置いていた学者たちがおびただしい天体の動きに関するデータを蓄積し、それらのデータを基にして天才的なひらめきでケプラーは理論を構築しました。天体の動きに関する『ケプラーの法則』の誕生です。歴史的連関が必要であるの意味がおわかりでしょうか。

 さらに科学は哲学や宗教をその出発点としています。ケプラーも占星術や錬金術を研究していました。キリスト教の影響を受けた科学者が、自分の興味関心、好奇心にそそのかされて研究を始めました。諸君だって科学に実はごまかされています。根本のところでは正しいと思い込んでいるにすぎません。原子や分子を見たことはないくせに科学的な説明を聞いてなるほどと思い込んでいるわけです。この意味で本文で科学者の知的誠実さはキリスト教によって培われたとか、日本人がヨーロッパのような土壌から科学を取り入れていないと書かれていることがおわかりでしょうか。本来、科学はその起源においても、現在においても神秘性や精神性が含まれていると考えられるのです。

 


ギリシア時代、天動説が常識となっている天文学の世界では、惑星は地球の周りを等速で円運動すると考えられていました。神の創造した世界は完全な調和の世界であり、完全なる図形である「円」こそが神の世界に相応しいものであるという宗教的、神秘的な考え方がすべての学問を支配していた時代です。天動説に反することを唱えるのはキリスト教の教義に反すること、異端となります。異端者と宣告されるとお墓を作ることも許されず、お経もあげてもらえなかったようです。
さて、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも使われるコペルニクス的転回という言葉をご存じでしょうか。(パラダイム転換とも言う)この言葉に使われているコペルニクスと言う人およびガリレオは天動説ではなく地動説を唱え異端とされました。地動説はもちろん今までの科学の考え方を完全に否定するものです。と同時に、それまでの学説とは全く連関を持たず非歴史的と言えます。

 科学の知が非歴史的と言う本文がおわかりでしょうか。本文にも書かれていますが科学というのは実証の学問であります。ニュートンはF=maという法則(仮説)を立てたにすぎません。そしてそれを知られている事実に当てはめてみて矛盾が見つからないので、それを万人が認めたのです。これを演繹と言います。でもこの仮説に基づいて月にまで到達しているのですよ。しかし、すべての現象についてこの仮説が正しいという事実を集めることは不可能です。仮に認められてもそれは『一応の真実』でしかあり得ないのです。20世紀に入って測定技術が進歩して来ると、ニュートンの法則に当てはまらない現象が次々に見つかって来ました。次の天才がアインシュタインです。アインシュタインはその新しく見つかった現象も説明できる新しい仮説を提案したのです。これによって今のところ、その仮説に当てはまらない現象が見つかっていないので、これも現在は『一応の真実』とされているのです。ですから将来また相対性理論が覆える可能性は考えられます。科学は神秘性や精神性が含まれている、そう思うでしょ。


科学の知の体系はそれ自身の西洋的起源を自ら消し去って本質的に世界文明を形成するものとして表れている


文明  

 文章そのものの意味は取りやすいと思われますが、文明と文化はその違いがわかりにくいという質問をよく受けますので説明しておきます。実は両方とも人間の生きることの営みであり、区別されることなく用いられることも多いようです。言葉の成り立ちから言うならば「cultureカルチャー・文化」はcultivateカルティベイト・耕されたもの、生きるために自然に手を加えることです。一方、「civilizationシビリゼィション・文明」はcivilizeシビライズ・都市化することであり、さまざまな面で発達した状態をあらわすものとされます。この二つの用語が区別されて使われる場合もあるようですので、その使い分けを考えてみます。区別されて使われる場合には、学問や宗教のように具体的に目に見えない精神的なものに文化が使われ、コンピューターや自動車のように、目に見える物質的な形あるものに文明が使われるようです。

2022年02月02日

現代文語彙20

2010年度 本試験 1 評論 語彙について

フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。

自己愛  

ここでつまずいた諸君がいるかな。『自己愛』何じゃそれは! そんな声が聞こえてきそうだ。猛暑、過酷な自然を前にすると私たちは自分の暮らす世界を厳しいものととらえがちだ。豊かな自然に恵まれた私たち日本人は世界を豊かなものとみなす世界観を持っている。八百万の神を信仰している。

 かつての人々がどのように世界を見ていたかの世界観をわかりやすく説明してくれるのが神であり、宗教だ。最近『パーシージャクソン』と言うデミゴッドの活躍する映画を見た人がおられるだろうか。映画ではエンパイアステイトビルの600階がオリンポスだったが、地中海の豊かな自然を背景にしたギリシャの人々はゼウスを中心とする多神教の世界を形作った。宇宙は一つの照応した秩序を形作っており、人間は宇宙の中でしかるべき位置、あるべき位置が与えられていた。この時代に生きる人々は世界に組み込まれることで自分の生きる位置、アイデンティティを得ていたと言えよう。

厳しく単調な自然に生きる人々は一神教、唯一絶対の神を作り出したが、この事情は同じだ。神々に支えられた世界、今までの人間の住む地上界の上を太陽や星々が動いているとした天動説にたいして、人間世界、地球こそが動いていると言う地動説をコペルニクスという学者が主張した。このことが天文学に大転換をおこした、つまり地球中心的見地から太陽中心的見地に移ったわけだ。世界は人間のために存在していたわけではなかったのである。地球が天体宇宙の中心的存在から追放されたと言う本文の記述がおわかりだろうか。


ダーウィン  
 次にダーウィンの『種の起源』である。種の創造が、父なる神ではなくて、母なる自然によってなされたとするダーウィンの進化論は、魔女狩りのような迫害を受けた。宗教界だけではなく社会一般からも攻撃された。神の恩寵を受けて、すべての動物の頂点として人間は作られていなかったことが明白になった。人間は世界とのつながりを無くしてしまう。

 

フロイト
 『意識・無意識』についてお話しよう。『識』という語句の意味だが『見分ける』が基本だ。自分の外にある情報や信号(見えるもの・聞こえるもの)を脳が受け止めて、整理整頓して覚える、見分けることである。その整理整頓されたものが自分の考えや表現に生かせる状態のもの「知識」と呼んで良いだろう。では「意識」とは何か。意図を持って、ある目的を持って、見えるもの、聞こえるもの、感じるものを信号を整理整頓すること。対象を、ものを認識する心の働き、同時に自分自身を客観的に見つめる、反省する働きをも含んだもの。この説明では何だかよくわからないと思うが、要するに「あの子はかわいい、恋人にしたい。自分にふさわしい相手だ。」と意識するわけだ。諸君も経験あるでしょ。ここでフロイトが登場する。フロイトは精神科医で、患者と向き合いつつ、心の奥底の見えない部分をさぐっていた。彼は人間には「通常は意識されない心の領域」が存在していて、それが人間の行動や感情と深く関係している、時には人間を支配することすらあると主張した。これが「無意識」だ。普段忘れていた事を私たちは突然思い出す。 それは自分の知らない部分で眠っていたものが出てきたと考えられる。「無意識」は意識よりも大きい存在で、それは人間を動かすもととなっている。「無意識の欲望」がもとになって、ほとんどの行動をしているとまで主張する。現在の意識だけでは人間の行動や思考が説明できないとされた。デカルトは、その二元論において意識が存在することこそ、人間の自然に対しての優位性を証明する事実だとしたのだが、この根底も覆されてしまった。人間を中心とする近代的世界観、おおげさに言えばヨーロッパ文明中心主義が覆されたとも言えるだろう。

 

 

 経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人(商業資本主義)を抹殺することから出発した


経済学 法学・政治学・経済学などは社会科学と呼ばれる。諸君の中には経済学部や経営学部を志望している人も多いことだろう。石油や石炭に代表される資源から、いかに価値あるものを生産し販売し利潤につないでいくかを研究する学問のことを経済学という。社会全般の経済活動が研究の対象となる。経営学部は実学というか、いかに会社を経営し、金儲けをするかに重点をおいた授業をしており、経営学を中心に商学、会計学などを学ぶ。経済は理論で、経営が実践とおおざっぱには考えられる。入門期の授業にはミクロ経済学入門,マクロ経済学入門,社会経済学入門,基礎統計学,経済史・思想史入門,現代経済事情,経営学入門,会計学入門,情報処理入門などがあり、二年生になると、ミクロ経済学、マクロ経済学、社会経済学、経済史、計量経済学,経済統計学,経済政策論,財政学,金融論,経営学原理,経営戦略,経営組織,マーケティング,経営財務,会計学と続く。たいへんそうに見えるだろうが学問としてはかなり面白い。要は現世での人間の幸福を追求する学問なのだ。経済学を作ったのはアダム・スミスと言われているが彼は経済学者ではなく、哲学者である。「どうすれば人間は幸せになれるか」というテーマを研究し、道徳の実践としての労働や貿易に注目した。当時カントは「有限な人間」を研究対象にした。神によって人間は天国か地獄に行き永遠に生きる無限な人間であると考えられていた時代である。またデカルトは我思う、故にわれあり「自分という存在があるのは、自分が認識しているからだ」という主張をした。神が私を作ったり操作はしていないとキリスト教の権威を否定した。人々の間に「死の恐怖」が生まれる。死後の世界など無いことになった。この世でどんなに苦しくても、「死後の世界」で天国に行けると信じていた人々は焦った。実はこうして経済学が誕生する。経済学は、「死」が避けられないなら「人生設計」をするべきだろう、そう考えて誕生したのだ。

 

 


資本主義 

これまた大学で詳しく学ぶだろうけれど、おおざっぱな説明をしておく。資本とは生産活動(何か製品を作り出す活動)を行う元手になるもののことであり、お金や工場、土地などを意味する。そのような資産を持った人(資本家)が労働者を雇って、製品を作り、販売し利益を上げる経済の仕組みのことだ。資本主義は、産業革命によって確立されたものであり、土地・工場・機械などの生産手段を私有化(金持ちが自分の所有とすること)することで体制が動き出す。さらに言うならば、この資本主義を支えているものは「私たちの欲望」である。自由を求め、豊かさを求め、自己実現を求める人々の際限なき欲望である。いい家に住みたい、良い車が欲しい、もっと速く処理の出来るコンピューターが欲しい、資本主義に私は操られている。

商業資本主義 

あまり聞き慣れない語句かな。本文にもあるように商業資本主義とは「商人が安いところで仕入れた商品を高く売れるところで売って儲ける」やり方で、他にも産業資本主義や独占資本主義、修正資本主義と呼ばれる考え方、体制がある。産業資本主義とは「多数の労働者を使って大量生産をおこなう機械制工場システムにもとづくもので、賃金で労働者を雇い産業で生産したものを高く売って儲ける」という現代日本でのごく普通の体制であり、独占資本主義とは「産業資本(会社)と金融資本(銀行)がどんどん一体化し、独占的な資本家に支配される世界」ことを言う。華麗なる一族というドラマを見ただろう、あれだ。また修正資本主義とは「資本主義のもたらす貧困、失業、恐慌などの社会矛盾や害悪は資本主義制度そのものを変革せずとも、その修正によって緩和し、克服できるとする、共産主義・社会主義の利点との融合を試みる」制度のことを言う。

 

 

技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態


 この問題文そのものがいわゆる「脱工業化社会」の状況を背景としていると考えられる。『情報そのものを商品化』という部分は用語の設明では、よくわからないだろうから、まず今に至るまでの社会の流れをおさえよう。

もともと世界の主要な産業は農業であった。カールおじさんの世界だ。のんびり空を見上げながら悠久の時の流れを感じつつ生きていた。穀物を生産し、家畜を養っていた。

ところが十八世紀から十九世紀に起こった産業革命がこの様相を一変させた。工場制機械工業が導入され、農作物、織物等の大量生産が出来るようになる。使い切れないほどの野菜や果物やお米や肉が作られ、食べきれず、消費しきれない事態に立ち至る。当然、その農作物を生産する人々も余ってくる。農業では食べていけなくなり、長男以外の農村の余剰労働力は行き場を失うこととなる。都会の工場がその労働力を吸収するようになった。主要な産業は農業から工業へと移行していく。「工業社会」が出現した。

目に見えるモノ、車、テレビ、冷蔵庫などを生産し人々がこれらを消費する。良い時代だ。給料はどんどん上がった。どんどん家の中に電化製品が増えていった。大量生産には標準化が欠かせない。労働力も均質であることが求められる。そのため、教育にまで平均化が求められ法制化された。組織は縦割りであり、ピラミッド型である。管理と統制を行なうにはこの形が一番効率がよい。大学も高校も序列化された。大きいことは良いことであり、大型車、高級車が志向された。

人々は東京に憧れ、一流大学、一流企業を目指す。ところがどうだろう。君たちの社会は、すべてのモノを消費し尽くしてしまったかに見える。工業製品までが余り始めた。コンピューターの制御能力は機械化のみならず、生産工程をいわゆるオートメーション化していった。労働者100人で10時間かけて作っていたものをたった一人で1時間で作れるようになったのだ。働く人が少なくても製品を作るのに支障がなくなり、現在の科学技術は労働者までも不要なものとし始めた。工業高校の卒業生はかつては金の卵と呼ばれた。しかし今はどうだろう。「工業社会」も雇用吸収力をなくしたのである。本文で言う労働する主体としての人間の価値が下がり始めた。同時に各家庭にはほとんどの家電製品が行き届き、欲しいもの、買いたいものがなくなり始めている。

 

 


サービス産業
 その結果「脱工業社会」が到来したと言われている。そこで台頭してきたのが「サービス産業」である。知識や情報、サービスなど形のない、いわば「無形」の財産を生産し、消費するという動きに立脚した新たな「資本主義」が生まれたと言えるだろう。お金を払った後に手元に残るものが「モノ」ではなく満足や効果である業務、これがサービス業だ。

ファミレスのドリンクバーは200円くらいだろうが原価は3円程度らしい。130円のコーラ缶は原価は5円以下。どうだろうか。ファミレスのドリンク代は飲み物そのものの値段ではなく『クーラーが効いた部屋、良い音楽、どれだけいてもかまわない。雰囲気』というサービスの値段だと考えられる。このサービス業を主体とした「脱工業社会」は今、さらに高度な「情報化社会」となりつつある。『情報』が農業製品や工業製品と同じような価値を持っていて、それらを中心として機能する社会が「情報社会」と呼ばれる。そのような社会へと変化しつつある社会を「情報化社会」とし、そのような社会を情報社会と言うわけだ。情報化社会の原動力はコンピュータである。工業化社会の原動力は産業機械であり、トラック、電車であった。製品が大量に作られ、人や物が遠くまで速く移動する。情報化社会では人や物の移動は必要最小限に抑えられ、それに代わって情報が移動する。満員電車や渋滞に苦しむことはなくなるのが在宅勤務である。最適な手段、効率が模索される。工業化社会では効率化が志向されていた。いくらで、何時間で作れるかが問題とされた。情報化社会ではこれらの価値観は意味を持たなくなる。そこで登場するのが本文の言う『差異』である。

 

 


差異
『差異』はもともと言語の体系で用いられた用語である。以前にも説明したが、人間は世界に切れ目を入れ(分節し)その部分に名前をつけることで言葉を生み出す。言葉を構築することで世界を創り出す。生まれたばかりの君にとって、自分をとりまくものはすべてつながっている、連続体として見えているはずだ。その連続体がある日、突然切れる。「おかあさん」と「おかあさん以外」の世界が出現する。分節されたのだ。分節されることで世界が理解できる。「おとうさん」「天井」「かべ」「昨日」「ごはん」何と「時間」までが言語だ。もともと宇宙に何時間、何分、何秒など存在しない。言語が作り出したものだ。分節した概念と他の概念との間は記号の差異表示機能で区別される。言語とは差異を表す記号の集合体であるとされる。企業はスカイラインという名前をつけることで変わらぬ品質を保証し、GTRと言う名前をつけることでこれまでにない製品であることを訴える。がしかし、そんなに機能としての差はない。300キロの速度が出せても走れる場所がない。売れる「差異」として歴史的、宗教的ないわゆる「文化的差異」も利用される。バレンタインデーのチョコレートも普段のチョコレートも味も香りも変わらない。でも売れる。キットカット、うカール、こんなモノ食べて合格できれば苦労は無い。でも買ってしまう。

 

 


それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労
働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。

この部分は100円ショップやユニクロ、むいた甘栗(手でむいている)を考えていただけるとわかりやすい。中国にあるホンダの部品工場でストライキがあったことはニュース等でご存じだろうが、赴任している日本人の中間管理職の月給は5万元(約67万円)であり、現地の中国人従業者の基本給は、すべての手当てを合わせてもわずか1510元(約1万9630円)であることは知らないだろう。養老保険や医療保険、住宅積立金などが控除されると、手元にはたった1211元(約1万5000円)しか残らないそうだ。栗を現地の人に手でむいてもらって給料を払ってから輸入しても十分利益はあげられるのだ。この例で農村における過剰人口の存在が、実質賃金率の水準を低く抑えられるという本文の記述を理解していただきたい。かつては日本もそうだったのである。


みずから媒介すべき差異を意識的に創り出して行かなければ利潤が生み出せなくなってきた。その結果が、差異そのもの
を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧噪に満ちた事態に他ならない。


2022年02月02日

現代文語彙21

2010年度 追試験 1 評論 語彙について
高度情報社会の到来によって「情報」の意味が変質しつつあるようだ。人間も社会も自然も宇宙もすべてが情報化されようとしている。今日の技術をもってすれば事物の情報が完全に把握されるとき、きわめてリアルに再現されたものはホンモノと呼んでも良いものになっている。クローン、シュミレーション、ヴァーチャルリアリティーは理念としてはホンモノと差異はない。諸君の生きている時代はオリジナルとコピーの中間領域、どちらの性格をも併せ持つ両義体としてシュミラークルが出現しつつある時代でもある。テレビ放送が行なわれたり、プロモーションビデオのDVDが発売されると同時にYouTubeにアップされるし、ニコニコ動画などはまさにシュミラークルそのものである。音楽においても、あるオリジナル作品を「データベース化」し、そのデータベースをもとにオリジナル作品のコピー作品が生まれ繁殖し、オリジナル作品は絶対的な価値を失い、すぐれたコピー作品と同等になることもあるのではないだろうか。

画家は確固とした存在理由を失い・・・何かが抜け落ちつつある・・・表現者を別な次元に招き入れようとする・・・近代技術
というコンテクスト(文脈)そのもの・・・ 凄まじい進歩を遂げている・・本物そっくりの複製が・・・どんどん開発されて
いる・・・・抽象的な絵画を作ることが可能になった・・既成の情報記号を引用し組み替える手法に関わるもの・・・

印象主義前、写実主義前、ロマン主義前の絵画は、受注生産されるものであった。注文主がいて、制作が始まる。注文主のリアリティを、依頼された画家が表現するという形になっていた。その注文主が、王侯貴族なのか、中産階級なのか、時代や所属する団体によって違うから、当然要求も異なるが「物を写実的に再現すること」をベースに、注文主の望む世界を作りあげるということだっただろう。そういう意味では絵画は本来、人間、神話、社会、哲学、宗教、あらゆるものの総合としての芸術表現であっただろうが、それが19世紀後半以後、美術だけの価値が追及されることになった。18世紀以前、特に17世紀以前の西洋美術、日本においては、ほぼ14世紀以前の美術、それは宗教が基本であり、それに基づいた図像が基本であったが、「近代」になると、静物画とか風景画というものも含めて総合的なものであった芸術が、形と色だけのものになったようだ。
 

表現すべきコンセプトが先に完成されている・・・自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であ
る・・・
近代科学、とりわけ技術の発達は理念の実現を目指す遂行手段の上でのプロセス的な出来事である・・・近代主
義の名で否定すべきは、人間の実体的な体験や思考ではなくむしろ理念の実現というコンテクストの方ではない
のだろうか・・・西洋近代の画家が試みたことは・・・一方通行的な再現的表現であった・・・

理性主義、合理主義、進歩史観が叫ばれた時代において市民革命後、人類は明るい未来へ向かうはずであった。理性的で合理的であればよりよい社会が現出するはずであった。この考え方を支えたものは分析・総合そして実証性という科学の知見であった。物心二元論においては事実に訴えるやりかた、実証性が探求する際の根本的な方法となっている。科学は物質が意識から独立して存在していることを前提としている。こうした考え方に基づけば人間の意識活動が絵筆や画材という媒体を使って外部に表現されたものが絵画ということになる。あくまでも絵画は内面の意思・表象を外部に伝えるための道具であるから運ばれる当のものは意思・表象そのものであり人間理性の内部に閉ざされたプライベートなものであると考えられる。筆者の李氏はこの過程(コンテクスト)の理解が根本的に間違っているとしている。理念の実現というあり方に疑問を投げかけている。
科学技術の発達は理念の実現を目指してきた。同じものを大量に制作し、再生した。一つしか出来ないというアウラ性が克服されすべての表現が引用、複製、虚像となっていく。量産し、利潤をあげるために情報記号を氾濫させることで実体を重視するという事態をもたらしただけに過ぎないとしている。文化がある程度発展すると、技術化の方向に進んでいく。技術化は、文化のレベルを上げ、より文化を洗練化する。が、その半面、技術化、あるいは技術の高度化によって、その文化それ自体のユニークさや勢いやパワーは損なわれていく。みんなが同じものを持つことで独自性がなくなり、個性が消え、取り替えがきくようになり、どれも同じ、という結論に向かう。
アウラ性・・オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重みや権威。写真や映画は、絵画がもっていたアウラの価値の下降を引き起こすのだが、それはこれらの複製技術によって生じる反復可能性が、絵画にかつて感じとられた一回性を失わせることによっている。

多義性に満ちたもの・・・思いもよらぬものに展開・・予定したコンセプトが大きくズレ出し・・・体認出来
る生きた画家の営為・・すべてを生きた要素同士の対応関係に仕立てる・・・作者の意図を超えた世界と作者の
相関的な生きざま・・必然的であると同時に恣意的な出来事の対応関係に依るもの・・・さまざまな要素らの対
応関係によって変質を余儀なくされる生きた世界の出来事であって・・要素の呼応ないし反発・・・一種の共同
性帯びて進んでいく・・・一つ一つの要素は画家の存在と同じく生きている・・・弁証法的関係の中で限りない
世界表現と自己の錬磨を行わずにはいられない。

デジタル革命はサイバー空間とリアルな現実空間の境界を定かではないものにしてきた。デジタルはオリジナルの権威を喪失しセンターとローカルの差異を崩壊させている。東京大学に行かなくてもサイバースペース上で同様の学問は可能だ。必要とあらばネット上で書籍も論文も入手できる。自国中心主義、男性中心主義、健常者中心主義はすべて意味をなさなくなりサイバー空間においては属性の差異をすべて捨象して皆が一様平等にコミュニケートできるようになっている。いわば脱中心化が行われる。これらの結果として双方向コミュニケーションが実施されるようになった。一方の極から他方の極へと流れるのが今までのコミュニケーションであった。教育がデジタル化されれば誰が先生で誰が生徒であるかは問題ではなくなる。よく出来たアプリケーションであれば先生は不要だ。デジタル情報革命は基盤となる発想を劇的に変化させるのだ。自我中心主義からの脱却も促される。個人の属性としてのアイデンティティも実は虚構でしかない。個人が独自に規定したものではなく社会的に規定されたものにすぎないからだ。個性などというものは他者からの規定の集積、個人の意識などはある時代やある社会によって構造化された中での結束点でしかない。社会的に分節され、記号化された文化構造の中での選択に過ぎない。この意味ではアイデンティティと呼ばれるものは他者によって規定されたものであり、他者の存在を前提にしなければその存在すら成立しない。「我思うゆえに我あり」ではなく「我は我ならざるものによって我でありうる」というわけだ。ここでは世界の構成要素はアトム的存在としての個人であり、それが集まって社会が形作られるという世界観はもはや通用しない。個人はどういうコミュニティーに所属し、どういう共同主観性を身に付けるか、個性は個人の属するいくつかのコミュニティーの重層的な交差点に析出するものと考えられる。外部や上からものを言うのはたやすい。私たちは常に外部ではなくどこかの内部にしか存在してはいない。外国の方と同居するからといって、どうがんばろうと私たちは日本人的な見方から離脱することは不可能だ。が他者からの目を自己の内部に持つ必要がある。相手との関係を差異の体系としてシステム的に思考する。個人と全体、私と公、自己と他者、どちらを優先させることなく両者の対立を超えたところで個の内部に全体性を内属させたようなシステムを構築するしかない。何だか絵画の説明なのに社会のあり方を説いているような気が諸君はしているに違いない。絵画によって表現されているものは意識や欲求から独立して存在はしていない。作者の意識や欲求は実は絵画を制作している過程、いわば客観的な作業の後から生じている。李氏はいわばボランティア社会の実現のような絵画を作ることを提言している。奉仕活動という意味ではない。束縛や義務という観念のない自由な行為である。自由を意識しながら他方で他者との共同作業(一筆一画・画材・題材となる対象・生きた点・生きた線)を通し同じ目的を追求する。一つ一つ自らの性質と言葉を持ち画家との抜き差しならぬ関係において生きたシステムとして働いたとき、絵画は生き生きとした気品あるものになる、李氏はそう言っている。連帯や協調を信じてともによりよき社会を、よりよき芸術を実現しようとしていくわけだ。今まで客観性や普遍性、必然性を標榜し実験室の中で理想的に想定された状態での一面的な性質を追求してきた科学はその態度を改めはじめている。実験室での結果が現実の自然界でも同様に成り立つとは考えていない。複雑な散逸した状態をありのままに記述しようとし始めている。いわば臨床化している現実を構成的に説明するのではなく、現実を認め、それを描写できる理論をシステム的に構築しようとしている。

2022年02月02日

現代文語彙22

2011年度 本試験 1 評論 語彙について


「高度情報化社会」とは近代が終わりポストモダンが迎えるであろうと言われている社会のことである。情報化社会とは単に情報機器が発達した社会、大量の情報が飛び交う時代を指すわけではない。他の年度の問題でも繰り返し述べていることだが近代の世界観、デカルト以来の物心二元論、唯物的自然観、機械論的自然観がぐらつきはじめた。物質を基礎とする世界観がゆらぎはじめたのだ。物質はすべて情報という言語で翻訳できるのではないか。人間社会や文明自体ですら情報の集合体と言えるのではないか。その情報化社会の今までにない特質をこの問題は扱っているととらえることも可能であり、そう考えると諸君が学ぶにふさわしい文章と言うことになる。


居間という空間がもとめる挙措の風にたったままいることは合わない。・・
からだで憶えてるふるまいである。・・
体が家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこに
いる他のひとびととの関係である形に整えられているということだ。


 おおざっぱにとらえれば「身体」は「場所という空間内部での具体的事物との関係においてその現実性が確認されていた」とこの前後の文章で鷲田氏は言っている。二元論では人間が精神を持つ唯一の存在であり、したがって世界の支配者である人間は支配の対象としての自然を従える存在であった。人間という精神に自然は仕えるべきなのだ。身体という自然は、ただの物質であるとみなされ、科学の対象とされた。精神、心に従ういわば機械と見なされた。しかし、心、精神は実際に生きること、経験を通して培われるものであり、問題文の作者の言うように身体が精神を形作る母体であるとも言えよう。身体とそれを取り巻く環境、空間、部屋や家具との関係、道路や立ち並ぶ家々との関係、周囲の人々との関係、手を延ばして触ることの出来る物の現実性や足を動かすことで、その物のある位置まで移動できる連続性などを基にして自分とは違う他の人々や物、建物、町、都市とつながっているという意識の中で自己を確認している。身体は皮膚の中の世界として確認出来ていたのではなく、皮膚の外側の世界との相互の浸透によって初めてその存在の確認が出来ていたということだ。


挙措を忘れる・・からだを浸食していく・・・暮らしというものが人体から脱落してゆく・・身体を孤立させな
いという配慮がそこにある・・物との関係が切断されれば身は宙に浮いてしまう・・・周りの空間への手がかり
が奪われている・・・他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる・・見られ聴かれるという関係が成り
立ちにくくなる・・・

今、諸君は空間や時間という語から何を感じるだろうか。おそらく三次元のたてよこ高さのある広がり、過去から今を通して未来へ流れている連続量としか受け止められないのではないだろうか。が、生徒指導部という空間は行きたくない空間だろうし、君の誕生日は単に一年の中のある一日ではなく君にとって特別の時間ではないだろうか。また墓場や神社の境内から何かを感じるのではないだろうか。空間や時間の持つ意味は近代以前において人間の意識や生活と深く関わりを持っていた。身体がまわりとのコンテクスト(文脈)につながりをもつ、とけこむことによって自己の存在を確認してきた。葬式の白黒の幕で覆われた空間、お祝い事の赤白で覆われた空間、両者ともに神と人間、生と死の交錯する特別の空間である。晴れ着、それは晴れの場で着る正装である。ところが近代は空間や時間から意味を剥ぎ取り人間とは無関係なひろがりのある均質なものに変えてしまった。科学も産業も均質で無限な空間と時間を前提に発達してきた。能率的、効率的、合理的であることが追求され、その結果空間や時間に含まれていた人間の思いや感情が無視された。人間と世界とのつながりが断ち切られたのだ。したがって身体は宙に浮いてしまうのだ。この現象は高齢者の施設の問題であって、諸君とは関係ないことのように思われるが実は諸君も宙に浮き始めている。インターネットいや携帯電話のiモードを通して小学生から高齢者まで幅ひろいコミュニケーションが展開されている。ただし、発信者や受信者がどのような属性(年齢、職業、性別など)の個人であるかは定かではない。小学生の女の子は赤い傘を持っている、大人の男性はネクタイをし、女性は化粧していることで年齢性別が認知できた。インターネットでは老人が若者にまじって会話をしたり、女性を装って男性が会話をして男性を誘惑する。小学生が妙に大人っぽくなったり、どこの国の人間かわからないような日本人が出現したり、自分が何者なのかわからなくなっていく。身体がないから、自分の個性の設定は自由自在である。さらに3D、CG、ヴァーチャルの出現により身体ごと別の空間に侵入できる可能性がひろがっている。おそらく空を身体が舞うという疑似体験もそう遠くない未来に出来るようになるだろう。自分という特定の身体性と人格性がそのはっきりした性質を失いはじめる。支えをなくした身体は、確固不動の自分すらなくしてしまうかもしれない。個人の属性が無意味になる。かつて「我思う、ゆえに我あり」世界の中心であった「わたし」が消えていく可能性が現実に起こり始めている。いわゆるアイデンティティの喪失が情報化社会の宿命でもあるのだ。いや喪失ではなくアイデンティティが拡散し、多元化している、そういう危険な状態が起こっていることを知ってほしい。アイデンティティは諸君が自律的に獲得するものではない、他者を介して他者の中で形成されるものだ。


空間の中身を創ってゆく場所・・行為の糸が互いに絡まり合い縒りあわされる中で空間の中身が形を持ちはじめ
る・・・無個性の抽象空間・・・

近代は「空間」を人間の生きることから切り離し客観的なものととらえることで便利さと豊かさを生み出した。
その反面、効率や能率が追求されることで空間の持つ人間性を見失ったとも言えるだろう。宗教や伝統の中で神社の境内や神のすむといわれる霊峰という空間を神聖な場所として私たちはその意味をとらえていた。近代となり、神聖さや厳粛さはただの迷信として捨て去られた。空間の意味が剥ぎ取られ、人間とは無関係に存在する無限で均質なものとしてとらえられるようになってきている。が、実は空間は「私たちが実際に生きる場所」であり主観的なものとして人の思いと深く結びついた様々な意味に満ちている。教室には諸君のさまざまな経験や記憶が染みついていることだろう。均質な空間・時間を前提にして近代科学は発達してきた。自然を機械とみなすことで様々な恩恵を入手してきた。便利さと豊かさを手にしながら違和感を感じているとしたら、私たちは近代によって切り離されたものとのつながりを手にしたいと思っているからだろう。

そこにはいろんな手がかりがある・・・開始されようとしているのは別の暮らしである・・・空間自体が編み直
されようとしている・・手がかりの充満する空間だ・・この空間には文化がある・・

文化、カルチャーはカルティベイトされたもの、耕されたものだ。生きるために自然に手を加えることである。複数の人間が様々な関わりを持ちながら生活する空間の中で作りあげた共通する生活の仕方や考え方である。諸君は日本文化に包まれて、世界をどう見るか、世界でどう生きていくか、を日本語という文化の構造を具現しているものを通して学んでいる。文化とは情報のかたまりであり、その情報を支えるものは共同体である。情報を形作っているものは言語であり、ある共同体のもつ言語の構造が文化であるとも言えよう。言語を離れては人間の意識は存在し得ない。どの地域で生まれたか、生活してきたかでその人の意識は言語によって構造化されている。が文化は、観点を変えれば様々な人や物との関わりを通して常に変化しているものであるとも言える。この意味ではすべての文化は雑種であり可塑的なものである。さて、ここの部分で、文化についてさりげなく「面白い観点」いやとても重要な点が指摘されているように思う。だれもが自分らしさを持ち自分の利益を大切にする。他者と競合したり衝突すると相手を押しのけてでも自分の立場を守ろうとする。が共生を考えるならば、この自尊の思いだけを堅持することは出来ない。共生これは難しい、障害者への差別は良くないと声高に申し立てる人であっても障害者である子供が生まれそうになると中絶を考えてしまう。すべての文化には価値があると主張する人でありながらある国の政治や文化に対し憤慨し、普遍的な人権を叫ぶ。文化や考え方の相違を認め、その優劣を競わないことを相対主義と呼ぶ。この意味では自由主義ですらキリスト教に基づく一つの主義であり、あらゆる人に強制することは望ましくないのかもしれない。人権概念や道徳律を強制することは悪しき普遍主義に過ぎない。この意味で相対主義に基づき多文化を認めることは、現代の政治的闘争、イスラム圏とキリスト圏とのやりとりを見る限り不可能のように思える。先にも述べたが自己は他者との関係においてアイデンティティを持つ。他者からの目を内部に持つこと、自分と他者のいわば共同主観に立つことで新しい自分を見いだす。異質な者との関係を差異の体系としてシステム論的に思考することで他者を自己を深層において認めることが今私たちに求められているのかもしれない。問題文においてグループホームという新しい平等にコミュニケートできる空間において互いに浸透しあう関係において新たなステージとしての文化を創出していると鷲田氏は言っているのだ。おもしろい観点だと思う。

ふるまいを鎮め確かな形を与える・・多型的に動き回らせる・・・空間のその可塑性(柔軟性のある様子)によ
って・・そういう知恵を引き継ごうとしている・・

ここに書かれていることはかつての木造住宅という空間の持つ特性についてである。この内容を理解することはさほど困難ではないだろう。が「からだを眠らせない知恵」という表現がとらえにくいかと思う。医療従事者は「高齢者」の問題を「老化」ととらえる。「臓器不全」を起こした患者には「健全な臓器の移植」をほどこす。植物状態に陥った患者に「生命維持装置」をつけて生かし続ける。これらは価値中立的に技術の可能性を追求しようとする科学の姿勢が前提とされている。対象の意識や気持ちなど関係が無い、生きたいのか、死にたいのかの意思は不問のままである。「老化」は細胞と組織と器官の機能不全の長期的過程に過ぎない。これが機能主義という概念の正体である。すなわち主観的な価値観から解放され中立的な冷静な目で人間を見ているとされる科学の正体である。現在、医療分野では治療(CURE)という機能主義的発想が問い直され、人間を救うという観点からの看護(CARE)が重要視されてきている。末期医療ターミナルケアにおいては生きる意味を積極的に見いだし精神面の救済をはかろうとしている。人として生き、人として死んでゆくとはどういうことかを考えるようになってきているが実はこの考え方はギリシャ時代にその端を発し、ソクラテスの言う「苦しみや痛みを避け快や楽だけを追求するのが人生ではない」という考え方はキリストの「いのちを生きる・ヨハネ福音書」という言葉にも見られ、さらには近代以前にはこの考え方はごく一般的であったと思われる。魂の充実こそが人生の最終的な目的であると言うことだろうか。介護施設や病院の中で臓器や生体の機能の問題への対象として扱われるのではなく、人としての生命の質、生命の尊厳、人格の尊重に配慮された、納得できる人生を支援しようとする試みの一つとしてのグループホームを、木造住宅の持つ特性を鷲田氏は評価している。

2022年02月02日