現代文語彙3

小学校、中学校、高校そして東大
自分という人間を上手に演じようとするなら、いろいろと努力する必要がある。それなりに家庭環境や能力に恵まれていると何とか東大を目指して頑張ろうとする。ギリギリで合格した途端に不合格の可能性を忘れはて、私立大学は言うに及ばず、そのほかの国公立大学の輩を差別し、ずうっと神童であったかのように演技する。東大卒業であれば、深い知識や思想を持っているかのように見える自分の姿は、ブランド力のある存在として自己満足できるものとなる。合格したら恩師であろうが母校であろうが、過去の遺物にすぎなくなる。

 

 



さらに前回も述べたように、私たちは自分は何者なのかをいつも考えてしまう癖を持っている。どうしてもなぜ生きているのか、何のために生きているのかを考えてしまう。世界と自分はどんな関係があるのか、考える、調べる、その課程で知識や思想が生まれてくる。そんな人間の長い期間にわたる営為が膨大な文献となり、経験となり、人類は遺産を積み上げてきた。そのいわば不必要と思えるほどの過剰な知識を体系化し、わかりやすいように再構成し、次世代に移管するために、もっともらしく見えるシステムを構築してきた。その過程で、思想そのものは、先人の生き方の血や肉としての思想ではなく、単に受験のための武器、道具に変質しているかもしれないが敬意は払うべきである。

小さな大人・・子供という概念は昔からあったものではない。近代の成立とともにもたらされたものである。近代以前には子供という時代は存在していない。小さい大人と見なされていた。
自分の用が自分で足せるようになると若い大人と見なされた。仕事も遊びも大人と一緒にしていた。また、遊びと労働は、かつてはよく似たものであったのが、近代になり、資本主義の発展とともに、分割されることになる。同時に子供と大人の分割がはかられた。子供を大人の前段階としてとらえようとする動きがあらわれた。大人の社会は秩序社会であり、子供は反秩序を代表するものと考えられ、教育により秩序社会に組み込もうとするものとして学校が誕生した。
現代は大人の社会が行き詰まりの様相を呈し、子供の世界をとらえ直そうという動きが始まっている。何物にもとらわれないみずみずしい感受性を評価し、大人の世界に取り込もうとしている。

学校教育・・いじめ、体罰、校内暴力、偏差値等の問題の基底には何があるのか。資本主義の要請に応じて作られた学校であるにも関わらず、社会主義的な要素を取り込んだが故の破綻かもしれない。国家を発展させるような社会性を備えた健全な大人、秩序を遵守するような大人を育てるためには、同じ教科書、同じ髪型、服装が必要とされる。平等に扱われることは、価値の画一化を生み出す。努力次第で誰でも上層にはい上がれるわけで、努力することは人間としての当然の行為と見なされるわけだ。それでも、戦後まもないころの教員は、戦争の原因の一つである集団主義を、画一主義を忌避していたがために、生徒の個性を重視しようとの動きに出た。社会に対して批判の眼を向けることの出来る生徒を育てようとした。その結果、学生運動の嵐が全国を吹き荒れることになった。あわてた国家は今度は、極端なまでの管理主義を打ちだした。生徒の生活空間は、資本主義がその思考や感性にまで影響を及ぼし「消費と快楽」と「個性の重視」を旨としている。学校空間だけが「禁欲と勤勉」と「集団美」を訴えても生徒は矛盾する情報の中でアンビバレンな状況に苦しむだけなのだ。さらに「個性重視の教育」なる画一的な目標までを掲げて、このあと日本の学校はどうなる・・。能力別クラス、エリート教育の陰で苦しむ欧米の生徒と同じ道を歩むことになるのだろうか。

あそび・・何かに奉仕するのではなく緊張と喜びの感情を伴った非日常的な行為そのものが遊びである。自発的なルールに基づく自由な活動である。かくれんぼうの本質は、空白の広がりの中に放り出される孤独の経験、世界が変貌する砂漠経験であり、本人が気づかない形で経験の胎盤が形成され、人生の予行演習をしていることになる。労働を基本とする大人の社会においても、演劇、祝祭という形で「あそび」を展開し、日常性の殻をうち破るダイナミズムが形成されている。

 

 


学歴社会・・日本は脱亜入欧政策をとり、ヨーロッパに追いつき、追い越そうとしてきた。学問をした人間は高貴な人間、金持ちになれるという福沢諭吉氏の考え方と、戦後の民主主義の考え方とが交錯するところに学歴社会が生み出された。学問を軽視することではなく、学歴だけで人間を評価する考え方を改めるべきだろう。がしかし、学歴社会はしぶとく、ちょっとやそっとでは変わらないと思われる。昨今のテレビ番組では、やたら東大卒がもてはやされている。東大卒にあらずば、人にあらず、とめてくれるな、おっかさん。かつての学生運動の時代の亡霊が蘇ったのか。

青年期・・子供と大人の分割されたことの結果として考え出された歴史的所産である。大人としての社会的義務を果たさなくてもいいモラトリアムの時期と呼ばれる。かつての青年たちは早く一人前になりたいと願っていた。中途半端に扱われる不満、禁欲状態を乗り越えて強い自我が形成されたし、内面の豊かさを生み出し、人格を形成し、さらには人間の学習、創造力を発展させ、支えたのは、その願いであった。
現代の若者はかつての禁欲状態を経験していない。好きなものは簡単に手に入れてきた世代にとって、社会的責任を果たさなくてもよい青年期は居心地のいいゆりかごのようなものであり、この猶予期間にいつまでもとどまろうとする青年が増えている。こうした青年たちに自我が十分形成されないことは言うに及ばず、その存在が社会の活力そのものも減退させる可能性を持っていると思われる。

 


2022年02月02日