現代文語彙21

2010年度 追試験 1 評論 語彙について
高度情報社会の到来によって「情報」の意味が変質しつつあるようだ。人間も社会も自然も宇宙もすべてが情報化されようとしている。今日の技術をもってすれば事物の情報が完全に把握されるとき、きわめてリアルに再現されたものはホンモノと呼んでも良いものになっている。クローン、シュミレーション、ヴァーチャルリアリティーは理念としてはホンモノと差異はない。諸君の生きている時代はオリジナルとコピーの中間領域、どちらの性格をも併せ持つ両義体としてシュミラークルが出現しつつある時代でもある。テレビ放送が行なわれたり、プロモーションビデオのDVDが発売されると同時にYouTubeにアップされるし、ニコニコ動画などはまさにシュミラークルそのものである。音楽においても、あるオリジナル作品を「データベース化」し、そのデータベースをもとにオリジナル作品のコピー作品が生まれ繁殖し、オリジナル作品は絶対的な価値を失い、すぐれたコピー作品と同等になることもあるのではないだろうか。

画家は確固とした存在理由を失い・・・何かが抜け落ちつつある・・・表現者を別な次元に招き入れようとする・・・近代技術
というコンテクスト(文脈)そのもの・・・ 凄まじい進歩を遂げている・・本物そっくりの複製が・・・どんどん開発されて
いる・・・・抽象的な絵画を作ることが可能になった・・既成の情報記号を引用し組み替える手法に関わるもの・・・

印象主義前、写実主義前、ロマン主義前の絵画は、受注生産されるものであった。注文主がいて、制作が始まる。注文主のリアリティを、依頼された画家が表現するという形になっていた。その注文主が、王侯貴族なのか、中産階級なのか、時代や所属する団体によって違うから、当然要求も異なるが「物を写実的に再現すること」をベースに、注文主の望む世界を作りあげるということだっただろう。そういう意味では絵画は本来、人間、神話、社会、哲学、宗教、あらゆるものの総合としての芸術表現であっただろうが、それが19世紀後半以後、美術だけの価値が追及されることになった。18世紀以前、特に17世紀以前の西洋美術、日本においては、ほぼ14世紀以前の美術、それは宗教が基本であり、それに基づいた図像が基本であったが、「近代」になると、静物画とか風景画というものも含めて総合的なものであった芸術が、形と色だけのものになったようだ。
 

表現すべきコンセプトが先に完成されている・・・自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であ
る・・・
近代科学、とりわけ技術の発達は理念の実現を目指す遂行手段の上でのプロセス的な出来事である・・・近代主
義の名で否定すべきは、人間の実体的な体験や思考ではなくむしろ理念の実現というコンテクストの方ではない
のだろうか・・・西洋近代の画家が試みたことは・・・一方通行的な再現的表現であった・・・

理性主義、合理主義、進歩史観が叫ばれた時代において市民革命後、人類は明るい未来へ向かうはずであった。理性的で合理的であればよりよい社会が現出するはずであった。この考え方を支えたものは分析・総合そして実証性という科学の知見であった。物心二元論においては事実に訴えるやりかた、実証性が探求する際の根本的な方法となっている。科学は物質が意識から独立して存在していることを前提としている。こうした考え方に基づけば人間の意識活動が絵筆や画材という媒体を使って外部に表現されたものが絵画ということになる。あくまでも絵画は内面の意思・表象を外部に伝えるための道具であるから運ばれる当のものは意思・表象そのものであり人間理性の内部に閉ざされたプライベートなものであると考えられる。筆者の李氏はこの過程(コンテクスト)の理解が根本的に間違っているとしている。理念の実現というあり方に疑問を投げかけている。
科学技術の発達は理念の実現を目指してきた。同じものを大量に制作し、再生した。一つしか出来ないというアウラ性が克服されすべての表現が引用、複製、虚像となっていく。量産し、利潤をあげるために情報記号を氾濫させることで実体を重視するという事態をもたらしただけに過ぎないとしている。文化がある程度発展すると、技術化の方向に進んでいく。技術化は、文化のレベルを上げ、より文化を洗練化する。が、その半面、技術化、あるいは技術の高度化によって、その文化それ自体のユニークさや勢いやパワーは損なわれていく。みんなが同じものを持つことで独自性がなくなり、個性が消え、取り替えがきくようになり、どれも同じ、という結論に向かう。
アウラ性・・オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重みや権威。写真や映画は、絵画がもっていたアウラの価値の下降を引き起こすのだが、それはこれらの複製技術によって生じる反復可能性が、絵画にかつて感じとられた一回性を失わせることによっている。

多義性に満ちたもの・・・思いもよらぬものに展開・・予定したコンセプトが大きくズレ出し・・・体認出来
る生きた画家の営為・・すべてを生きた要素同士の対応関係に仕立てる・・・作者の意図を超えた世界と作者の
相関的な生きざま・・必然的であると同時に恣意的な出来事の対応関係に依るもの・・・さまざまな要素らの対
応関係によって変質を余儀なくされる生きた世界の出来事であって・・要素の呼応ないし反発・・・一種の共同
性帯びて進んでいく・・・一つ一つの要素は画家の存在と同じく生きている・・・弁証法的関係の中で限りない
世界表現と自己の錬磨を行わずにはいられない。

デジタル革命はサイバー空間とリアルな現実空間の境界を定かではないものにしてきた。デジタルはオリジナルの権威を喪失しセンターとローカルの差異を崩壊させている。東京大学に行かなくてもサイバースペース上で同様の学問は可能だ。必要とあらばネット上で書籍も論文も入手できる。自国中心主義、男性中心主義、健常者中心主義はすべて意味をなさなくなりサイバー空間においては属性の差異をすべて捨象して皆が一様平等にコミュニケートできるようになっている。いわば脱中心化が行われる。これらの結果として双方向コミュニケーションが実施されるようになった。一方の極から他方の極へと流れるのが今までのコミュニケーションであった。教育がデジタル化されれば誰が先生で誰が生徒であるかは問題ではなくなる。よく出来たアプリケーションであれば先生は不要だ。デジタル情報革命は基盤となる発想を劇的に変化させるのだ。自我中心主義からの脱却も促される。個人の属性としてのアイデンティティも実は虚構でしかない。個人が独自に規定したものではなく社会的に規定されたものにすぎないからだ。個性などというものは他者からの規定の集積、個人の意識などはある時代やある社会によって構造化された中での結束点でしかない。社会的に分節され、記号化された文化構造の中での選択に過ぎない。この意味ではアイデンティティと呼ばれるものは他者によって規定されたものであり、他者の存在を前提にしなければその存在すら成立しない。「我思うゆえに我あり」ではなく「我は我ならざるものによって我でありうる」というわけだ。ここでは世界の構成要素はアトム的存在としての個人であり、それが集まって社会が形作られるという世界観はもはや通用しない。個人はどういうコミュニティーに所属し、どういう共同主観性を身に付けるか、個性は個人の属するいくつかのコミュニティーの重層的な交差点に析出するものと考えられる。外部や上からものを言うのはたやすい。私たちは常に外部ではなくどこかの内部にしか存在してはいない。外国の方と同居するからといって、どうがんばろうと私たちは日本人的な見方から離脱することは不可能だ。が他者からの目を自己の内部に持つ必要がある。相手との関係を差異の体系としてシステム的に思考する。個人と全体、私と公、自己と他者、どちらを優先させることなく両者の対立を超えたところで個の内部に全体性を内属させたようなシステムを構築するしかない。何だか絵画の説明なのに社会のあり方を説いているような気が諸君はしているに違いない。絵画によって表現されているものは意識や欲求から独立して存在はしていない。作者の意識や欲求は実は絵画を制作している過程、いわば客観的な作業の後から生じている。李氏はいわばボランティア社会の実現のような絵画を作ることを提言している。奉仕活動という意味ではない。束縛や義務という観念のない自由な行為である。自由を意識しながら他方で他者との共同作業(一筆一画・画材・題材となる対象・生きた点・生きた線)を通し同じ目的を追求する。一つ一つ自らの性質と言葉を持ち画家との抜き差しならぬ関係において生きたシステムとして働いたとき、絵画は生き生きとした気品あるものになる、李氏はそう言っている。連帯や協調を信じてともによりよき社会を、よりよき芸術を実現しようとしていくわけだ。今まで客観性や普遍性、必然性を標榜し実験室の中で理想的に想定された状態での一面的な性質を追求してきた科学はその態度を改めはじめている。実験室での結果が現実の自然界でも同様に成り立つとは考えていない。複雑な散逸した状態をありのままに記述しようとし始めている。いわば臨床化している現実を構成的に説明するのではなく、現実を認め、それを描写できる理論をシステム的に構築しようとしている。

2022年02月02日