現代文語彙20

2010年度 本試験 1 評論 語彙について

フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。

自己愛  

ここでつまずいた諸君がいるかな。『自己愛』何じゃそれは! そんな声が聞こえてきそうだ。猛暑、過酷な自然を前にすると私たちは自分の暮らす世界を厳しいものととらえがちだ。豊かな自然に恵まれた私たち日本人は世界を豊かなものとみなす世界観を持っている。八百万の神を信仰している。

 かつての人々がどのように世界を見ていたかの世界観をわかりやすく説明してくれるのが神であり、宗教だ。最近『パーシージャクソン』と言うデミゴッドの活躍する映画を見た人がおられるだろうか。映画ではエンパイアステイトビルの600階がオリンポスだったが、地中海の豊かな自然を背景にしたギリシャの人々はゼウスを中心とする多神教の世界を形作った。宇宙は一つの照応した秩序を形作っており、人間は宇宙の中でしかるべき位置、あるべき位置が与えられていた。この時代に生きる人々は世界に組み込まれることで自分の生きる位置、アイデンティティを得ていたと言えよう。

厳しく単調な自然に生きる人々は一神教、唯一絶対の神を作り出したが、この事情は同じだ。神々に支えられた世界、今までの人間の住む地上界の上を太陽や星々が動いているとした天動説にたいして、人間世界、地球こそが動いていると言う地動説をコペルニクスという学者が主張した。このことが天文学に大転換をおこした、つまり地球中心的見地から太陽中心的見地に移ったわけだ。世界は人間のために存在していたわけではなかったのである。地球が天体宇宙の中心的存在から追放されたと言う本文の記述がおわかりだろうか。


ダーウィン  
 次にダーウィンの『種の起源』である。種の創造が、父なる神ではなくて、母なる自然によってなされたとするダーウィンの進化論は、魔女狩りのような迫害を受けた。宗教界だけではなく社会一般からも攻撃された。神の恩寵を受けて、すべての動物の頂点として人間は作られていなかったことが明白になった。人間は世界とのつながりを無くしてしまう。

 

フロイト
 『意識・無意識』についてお話しよう。『識』という語句の意味だが『見分ける』が基本だ。自分の外にある情報や信号(見えるもの・聞こえるもの)を脳が受け止めて、整理整頓して覚える、見分けることである。その整理整頓されたものが自分の考えや表現に生かせる状態のもの「知識」と呼んで良いだろう。では「意識」とは何か。意図を持って、ある目的を持って、見えるもの、聞こえるもの、感じるものを信号を整理整頓すること。対象を、ものを認識する心の働き、同時に自分自身を客観的に見つめる、反省する働きをも含んだもの。この説明では何だかよくわからないと思うが、要するに「あの子はかわいい、恋人にしたい。自分にふさわしい相手だ。」と意識するわけだ。諸君も経験あるでしょ。ここでフロイトが登場する。フロイトは精神科医で、患者と向き合いつつ、心の奥底の見えない部分をさぐっていた。彼は人間には「通常は意識されない心の領域」が存在していて、それが人間の行動や感情と深く関係している、時には人間を支配することすらあると主張した。これが「無意識」だ。普段忘れていた事を私たちは突然思い出す。 それは自分の知らない部分で眠っていたものが出てきたと考えられる。「無意識」は意識よりも大きい存在で、それは人間を動かすもととなっている。「無意識の欲望」がもとになって、ほとんどの行動をしているとまで主張する。現在の意識だけでは人間の行動や思考が説明できないとされた。デカルトは、その二元論において意識が存在することこそ、人間の自然に対しての優位性を証明する事実だとしたのだが、この根底も覆されてしまった。人間を中心とする近代的世界観、おおげさに言えばヨーロッパ文明中心主義が覆されたとも言えるだろう。

 

 

 経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人(商業資本主義)を抹殺することから出発した


経済学 法学・政治学・経済学などは社会科学と呼ばれる。諸君の中には経済学部や経営学部を志望している人も多いことだろう。石油や石炭に代表される資源から、いかに価値あるものを生産し販売し利潤につないでいくかを研究する学問のことを経済学という。社会全般の経済活動が研究の対象となる。経営学部は実学というか、いかに会社を経営し、金儲けをするかに重点をおいた授業をしており、経営学を中心に商学、会計学などを学ぶ。経済は理論で、経営が実践とおおざっぱには考えられる。入門期の授業にはミクロ経済学入門,マクロ経済学入門,社会経済学入門,基礎統計学,経済史・思想史入門,現代経済事情,経営学入門,会計学入門,情報処理入門などがあり、二年生になると、ミクロ経済学、マクロ経済学、社会経済学、経済史、計量経済学,経済統計学,経済政策論,財政学,金融論,経営学原理,経営戦略,経営組織,マーケティング,経営財務,会計学と続く。たいへんそうに見えるだろうが学問としてはかなり面白い。要は現世での人間の幸福を追求する学問なのだ。経済学を作ったのはアダム・スミスと言われているが彼は経済学者ではなく、哲学者である。「どうすれば人間は幸せになれるか」というテーマを研究し、道徳の実践としての労働や貿易に注目した。当時カントは「有限な人間」を研究対象にした。神によって人間は天国か地獄に行き永遠に生きる無限な人間であると考えられていた時代である。またデカルトは我思う、故にわれあり「自分という存在があるのは、自分が認識しているからだ」という主張をした。神が私を作ったり操作はしていないとキリスト教の権威を否定した。人々の間に「死の恐怖」が生まれる。死後の世界など無いことになった。この世でどんなに苦しくても、「死後の世界」で天国に行けると信じていた人々は焦った。実はこうして経済学が誕生する。経済学は、「死」が避けられないなら「人生設計」をするべきだろう、そう考えて誕生したのだ。

 

 


資本主義 

これまた大学で詳しく学ぶだろうけれど、おおざっぱな説明をしておく。資本とは生産活動(何か製品を作り出す活動)を行う元手になるもののことであり、お金や工場、土地などを意味する。そのような資産を持った人(資本家)が労働者を雇って、製品を作り、販売し利益を上げる経済の仕組みのことだ。資本主義は、産業革命によって確立されたものであり、土地・工場・機械などの生産手段を私有化(金持ちが自分の所有とすること)することで体制が動き出す。さらに言うならば、この資本主義を支えているものは「私たちの欲望」である。自由を求め、豊かさを求め、自己実現を求める人々の際限なき欲望である。いい家に住みたい、良い車が欲しい、もっと速く処理の出来るコンピューターが欲しい、資本主義に私は操られている。

商業資本主義 

あまり聞き慣れない語句かな。本文にもあるように商業資本主義とは「商人が安いところで仕入れた商品を高く売れるところで売って儲ける」やり方で、他にも産業資本主義や独占資本主義、修正資本主義と呼ばれる考え方、体制がある。産業資本主義とは「多数の労働者を使って大量生産をおこなう機械制工場システムにもとづくもので、賃金で労働者を雇い産業で生産したものを高く売って儲ける」という現代日本でのごく普通の体制であり、独占資本主義とは「産業資本(会社)と金融資本(銀行)がどんどん一体化し、独占的な資本家に支配される世界」ことを言う。華麗なる一族というドラマを見ただろう、あれだ。また修正資本主義とは「資本主義のもたらす貧困、失業、恐慌などの社会矛盾や害悪は資本主義制度そのものを変革せずとも、その修正によって緩和し、克服できるとする、共産主義・社会主義の利点との融合を試みる」制度のことを言う。

 

 

技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態


 この問題文そのものがいわゆる「脱工業化社会」の状況を背景としていると考えられる。『情報そのものを商品化』という部分は用語の設明では、よくわからないだろうから、まず今に至るまでの社会の流れをおさえよう。

もともと世界の主要な産業は農業であった。カールおじさんの世界だ。のんびり空を見上げながら悠久の時の流れを感じつつ生きていた。穀物を生産し、家畜を養っていた。

ところが十八世紀から十九世紀に起こった産業革命がこの様相を一変させた。工場制機械工業が導入され、農作物、織物等の大量生産が出来るようになる。使い切れないほどの野菜や果物やお米や肉が作られ、食べきれず、消費しきれない事態に立ち至る。当然、その農作物を生産する人々も余ってくる。農業では食べていけなくなり、長男以外の農村の余剰労働力は行き場を失うこととなる。都会の工場がその労働力を吸収するようになった。主要な産業は農業から工業へと移行していく。「工業社会」が出現した。

目に見えるモノ、車、テレビ、冷蔵庫などを生産し人々がこれらを消費する。良い時代だ。給料はどんどん上がった。どんどん家の中に電化製品が増えていった。大量生産には標準化が欠かせない。労働力も均質であることが求められる。そのため、教育にまで平均化が求められ法制化された。組織は縦割りであり、ピラミッド型である。管理と統制を行なうにはこの形が一番効率がよい。大学も高校も序列化された。大きいことは良いことであり、大型車、高級車が志向された。

人々は東京に憧れ、一流大学、一流企業を目指す。ところがどうだろう。君たちの社会は、すべてのモノを消費し尽くしてしまったかに見える。工業製品までが余り始めた。コンピューターの制御能力は機械化のみならず、生産工程をいわゆるオートメーション化していった。労働者100人で10時間かけて作っていたものをたった一人で1時間で作れるようになったのだ。働く人が少なくても製品を作るのに支障がなくなり、現在の科学技術は労働者までも不要なものとし始めた。工業高校の卒業生はかつては金の卵と呼ばれた。しかし今はどうだろう。「工業社会」も雇用吸収力をなくしたのである。本文で言う労働する主体としての人間の価値が下がり始めた。同時に各家庭にはほとんどの家電製品が行き届き、欲しいもの、買いたいものがなくなり始めている。

 

 


サービス産業
 その結果「脱工業社会」が到来したと言われている。そこで台頭してきたのが「サービス産業」である。知識や情報、サービスなど形のない、いわば「無形」の財産を生産し、消費するという動きに立脚した新たな「資本主義」が生まれたと言えるだろう。お金を払った後に手元に残るものが「モノ」ではなく満足や効果である業務、これがサービス業だ。

ファミレスのドリンクバーは200円くらいだろうが原価は3円程度らしい。130円のコーラ缶は原価は5円以下。どうだろうか。ファミレスのドリンク代は飲み物そのものの値段ではなく『クーラーが効いた部屋、良い音楽、どれだけいてもかまわない。雰囲気』というサービスの値段だと考えられる。このサービス業を主体とした「脱工業社会」は今、さらに高度な「情報化社会」となりつつある。『情報』が農業製品や工業製品と同じような価値を持っていて、それらを中心として機能する社会が「情報社会」と呼ばれる。そのような社会へと変化しつつある社会を「情報化社会」とし、そのような社会を情報社会と言うわけだ。情報化社会の原動力はコンピュータである。工業化社会の原動力は産業機械であり、トラック、電車であった。製品が大量に作られ、人や物が遠くまで速く移動する。情報化社会では人や物の移動は必要最小限に抑えられ、それに代わって情報が移動する。満員電車や渋滞に苦しむことはなくなるのが在宅勤務である。最適な手段、効率が模索される。工業化社会では効率化が志向されていた。いくらで、何時間で作れるかが問題とされた。情報化社会ではこれらの価値観は意味を持たなくなる。そこで登場するのが本文の言う『差異』である。

 

 


差異
『差異』はもともと言語の体系で用いられた用語である。以前にも説明したが、人間は世界に切れ目を入れ(分節し)その部分に名前をつけることで言葉を生み出す。言葉を構築することで世界を創り出す。生まれたばかりの君にとって、自分をとりまくものはすべてつながっている、連続体として見えているはずだ。その連続体がある日、突然切れる。「おかあさん」と「おかあさん以外」の世界が出現する。分節されたのだ。分節されることで世界が理解できる。「おとうさん」「天井」「かべ」「昨日」「ごはん」何と「時間」までが言語だ。もともと宇宙に何時間、何分、何秒など存在しない。言語が作り出したものだ。分節した概念と他の概念との間は記号の差異表示機能で区別される。言語とは差異を表す記号の集合体であるとされる。企業はスカイラインという名前をつけることで変わらぬ品質を保証し、GTRと言う名前をつけることでこれまでにない製品であることを訴える。がしかし、そんなに機能としての差はない。300キロの速度が出せても走れる場所がない。売れる「差異」として歴史的、宗教的ないわゆる「文化的差異」も利用される。バレンタインデーのチョコレートも普段のチョコレートも味も香りも変わらない。でも売れる。キットカット、うカール、こんなモノ食べて合格できれば苦労は無い。でも買ってしまう。

 

 


それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労
働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。

この部分は100円ショップやユニクロ、むいた甘栗(手でむいている)を考えていただけるとわかりやすい。中国にあるホンダの部品工場でストライキがあったことはニュース等でご存じだろうが、赴任している日本人の中間管理職の月給は5万元(約67万円)であり、現地の中国人従業者の基本給は、すべての手当てを合わせてもわずか1510元(約1万9630円)であることは知らないだろう。養老保険や医療保険、住宅積立金などが控除されると、手元にはたった1211元(約1万5000円)しか残らないそうだ。栗を現地の人に手でむいてもらって給料を払ってから輸入しても十分利益はあげられるのだ。この例で農村における過剰人口の存在が、実質賃金率の水準を低く抑えられるという本文の記述を理解していただきたい。かつては日本もそうだったのである。


みずから媒介すべき差異を意識的に創り出して行かなければ利潤が生み出せなくなってきた。その結果が、差異そのもの
を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧噪に満ちた事態に他ならない。


2022年02月02日