現代文語彙17

2008年度 追試験 1 評論 語彙について

 


 「眼で見ることではなく、概念によって判断することが我々の日常の精神活動を規定している。」「悟性は概念を用いて、混沌とした感覚対象を関連づけ、秩序づけることが出来る」

 

 「悟性」と言う言葉は英語ではunderstandingアンダースタンドです。この方が諸君にはわかりやすいのではないでしょうか。この「悟性」は学者によっていろいろな定義付けがなされています。たとえばカントという哲学者は「感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力」としています。ヘーゲルは「悟性は事物をばらばらに捉え、しかもそれらを固定化し、事物が運動や矛盾を含むものとして捉えられていない思考の能力」と言っています。このように、いろいろなとらえ方があるのですが、この問題文では「論理的な思考を行う能力」くらいに考えておけば良いと思います。


「概念」とは「あるものごとの抽象された本質を言葉で表した意味」と考えればいいのですが、よくわからないでしょうね。「具体」から考えましょうか。あなたの好きな男性タレント「キムタク」とか「スガ」とか、いろいろおられるでしょうが、「そのモノのあるがままの姿」を具体と言います。この具体的な男性を転送装置にかけてみましょう。原子レベルに分解して、その構造を解析します。次に転送して再度、実体を構成すると考えます。その際に、再構成する実体をいじってみることにします。キムタク・ヤマピー・遠藤憲一のどれにも似ているが、どの一人とも違うモノを作り出すことにします。その際に具体的な一人ずつの個性、例えば眼が二重とか、肌が白いとかをすべて捨て去ります。このことを捨象(しゃしょう)と言います。この捨象を通して、引っ張り出されたものを抽象物、英語でabstractアブストラクトというのはご存じでしょう。こうすることで物事の本質をはっきりと示すことが出来ると言われています。「男性この言葉はまさに抽象物です。この抽象された「男性」に関して「男性とは~である」という文を考えてみてください。その内容が「概念conceptionコンセプション」なのです。「そのものの持っている意味や価値」くらいに、この文章では考えればいいと思います。ついでに言えば「観念」とは「idea頭の中で考えたイメージや思い」です。「観念的」という言い方は「頭の中だけで考えていることで現実に合っていないこと」という意味で使われることがありますので注意してください。

「若きシュタインがまず批判しなければならぬと考えたのは現代におけるこのデカルト主義であったが、彼はそれを感覚の質的体験の回復を通して行おうとしたのである。」

 

「デカルト」については何回か書いているが、ここでまた復習を兼ねて説明してみたい。まず「数学」だ。諸君の中には得意な人も、苦手な人もいると思うが演繹の方法、つまり受験数学の基礎はデカルトが作ったと言ったら、どう思うだろうか。デカルトは「方法序説」と言う有名な書物の中で「方法的懐疑」という独自な思考を提案している。デカルトがまず疑いの対象としたのは、人間の感覚だ。水の中ではオールが曲がって見える。ご存じの屈折という現象である。がしかし、まっすぐな物を条件が変わると曲がって見てしまう、このように人間の感覚は頼りないものであるとデカルトは考えたわけだ。疑い続けて最後には、今生きている現実世界のすべての事物や事象が、あるいは夢かもしれないという所までデカルトは疑う。こうして出来た有名な言葉が「コギトエルゴスム・我思う故に我あり」である。そこでデカルトは絶対に間違いのない真実に至る方法を考えようとした。
① 独断と偏見を避けながら、自己が真実と考えたもの以外は受け入れない。
② 研究しようとする問題を、解決が容易な小部分に分割する。
③ 考え方の順序を、単純なものから複雑なものへと方向付ける。
④ 全体を見直してみる。
 これが有名な「方法的懐疑」ですが、数学の得意な諸君、どうですか。こうやって問題を解いていませんか。


さて、「いろいろなことは疑うことができる。事物や事象は不確実な事柄でしかないが、疑っている自己の存在、これは確実である。自己は疑うという思考の働きを本質としている。これは精神だ。精神がとらえる世界は物質だ。」としました。主観(考える自己)と客観(対象である事物)に分けるデカルト風「二元論」の誕生です。

 

 

 人間は精神を持つ存在だから、世界の支配者になるのは当然であり、自然はその支配の対象であると考えました。人間という主人・主体に、客体である自然は仕えねばならないとしました。主客二元論と呼ばれるこの考え方が人類の発展をもたらす科学の基礎となるわけです。でデカルトは次に「主観としての認識つまり主体の中での像・心の中のイメージ」と「客観としての認識対象・実際に見えている物」が一致しているかどうかをどのように確かめるかという問題に取り組みました。もし、この人間の思惟と客観的な実在の世界がぴたりと一致していたとしたら、世界を完全に正しい形で認識できていると言うことになるからです。そのための方法が「方法的懐疑」です。


「表象生活における自我は毎夜睡眠状態を通してその自己同一性を否定されている。」

「表象」は心の中に形として浮かんでいるもののことでありイメージだと思ってください。これまた言語学の用語としての使われ方だと思います。

 

 


 生物の授業で分類を学んだかと思います。「生物」という全体をまず考え、これをまず「動物」と「植物」に分ける。「動物」をさらに「脊椎動物」「無脊椎動物」「節足動物」と分けていく。「脊椎動物」をさらに「哺乳類」「爬虫類」と、「哺乳類」、最後に生物全体は「種」という「表象」に切り分けられていく。この「表象」は一つ一つが部品となって「生物の分類表」を構成する。こういう形で、教わった諸君は生物の世界が「切り分けて枠に整理されている」と思われているでしょう。表象と表象とが支えあって世界全体を構成している「かのように思わされている」のです。いま「思わされている」と書きましたが、「生物世界の切り分け方」は他にも考えられるので、これは切り分け方の一つに過ぎないのです。分節の仕方が変われば、おのずと見え方も変わる、すなわち「表象」のありようも変わります。

 

 

「表象」というのは、「あるものを見えるようにするもの」でありながら、同時に「他の見え方を隠してしまう」という作用をも持っているわけです。「虹」について考えます。日本では七色です。英語では六色です。五色、十色の民族も多いそうです。人間の目に見えている自然現象としての「虹」は同じものです。なのに、国によって「色の分け方」がちがう。「同じ現象を切り分ける、その切り分け方がちがうのだ」ということです。私たちは日本語というラングの世界で、一つの見方、考え方を知らず知らずのうちに強制されているともいえるでしょう。諸君はある物を「イメージする」ことで「対象」として見えるようにし、自分との関係の中に組み入れます。一日、一時間、一分、一秒これらは自然界にもともと存在したものではなく、人間が生きるために作り出した「表象」です。「あと10分しかない、よし集中しよう。」しかし、この行為を通して、実は、事物をあるがままに見ているのではなくて「自分が見たいように見ている」のではないだろうかという疑問が背景にあるのが、問題文の筆者の表象生活という語の使われ方だと思います。私たちは自由に加工・操作できるものとして見ようとして生活を見ている。「現実生活の対象」はそのように見えてくるわけですが、しかしそれは「あるがままの現実の姿」とは違います。単なる「イメージの錯綜する世界」を生きているとでも言いたいのでしょう。

 

さて諸君は、現在、子どもから大人への移行期にいる。諸君の自我は幼い頃から夢見てきたいくつかの自分の未来像の中から、あるいはそれ以外の未来像から「成長した自分にふさわしいもの」「自分として納得できる未来像」をあらためて自覚し選択しなおす時期にいる。青年期の自我は、自分が生まれ育った環境、平成という時代・社会が提供する価値や規範、役割、権威のなかから、「自分の自己同一性と考えているもの・自分はこうあるべきだという姿」と一致するものを意識的に選択しようとする。(どこの大学の何学部の何学科に進学する、これが当面の課題だ。)幼い頃から、諸君は選択の繰り返しを通して自分のあり方を選び取ってきた。複数の「・…としての自分」男としての自分・長男としての自分・ひまわり組の自分・開成中学の生徒の自分・大野高校の生徒の自分・山田君の友人としての自分。諸君は、それぞれの状況に応じて一定の社会的役割を果たすことによって「今の自我」を確認し検証してきたのだ。また、今の自分と幼稚園時代の自分とは何らかの形でずっと継続してきていると信じている。存在してきた時間の違いはあっても、自分の自己同一性は連続しているという直接的な感覚を持っている。また他者である家族や友人が自己の同一性の連続していることを認知しているという事実も確認しているはずだ。
今、諸君は特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと、大学に合格し、将来が約束されている自分に向かって発達しつつあるという確信を持ちたいが為に受験勉強をしている。

 

 

 さて本文の「睡眠状態」の話に移ります。寝ている間に見る夢に象徴されるものとは、無意識の世界観である。そう言ったのは『フロイト』と言う人です。目が覚めている時、現実を私たちは生きています。しかしながら、現実の世界でかなえられる願いはわずかなものです。頭のいい人にはかないません、劣等感に苦しむ心の健康を維持するためには、良い夢を見るしかありません。夢が現実世界の不備を補い、心を慰める機能を持つため、この苦しみは最小限におさまります。夢の内容を苦しむ人間の願望を充足する要素として捉えたフロイトは、「現実世界の表面に現れている私の意識以外のもの」、より率直な欲求を知るために重要な情報をもたらすものとして、夢の世界に立ち現れる表象の有り様に注目するようになりました。これが、フロイトの夢分析です。
睡眠状態すなわち「夢の世界での自己」は同じ自分でありながら「現実世界の自己」とは一致しません。「現実世界の自己」が実感の伴わないイメージとしての自我であればあるほど「夢の世界での自己」とはまったく違うもの、正反対の存在である可能性は十分考えられます。

 


だから我々は思考的存在になればなるほど、より普遍的になってくる。

「普遍」は英語でuniversalユニバーサルです。これまた英語の方が諸君にはわかりやすいかと思います。どの時代でも、どの場所でも成り立つことを意味しています。


「一体人間以外のいかなる動物にそのような純粋感覚体験が与えられているだろうか。」「我々高次の感覚、視覚や聴覚には、自然科学が見過ごしてきたひとつの客観的認識能力がそなわっているのではないか、というゲーテ的感覚論を」

 私たちが生きている時代をつくりだした世界観、近代の世界観は「デカルト」から始まると言われる。人間の理性には、客観的な真理が宿るとされた。人間は理性的な動物である。人間は限りなく進歩する。だからヨーロッパで生まれた文明が唯一の基準であり、他の世界はヨーロッパ的な世界を目指し啓蒙されるべきである。そう考えられていたわけです。地球のほんの片田舎にすぎないヨーロッパ世界が世界基準である、そう思い込まされたわけです。


普遍性・論理性・客観性これらはまるで神のような絶対的な価値として受け取られ、合理主義は月にまで人間を到達させた。近代科学は否定できない絶対的なものとして考えられてきた。ところが、現在、巨大な技術や社会制度が生み出したさまざまな矛盾が噴き出し、あるいは被害を被るようになってきた。「デカルト」的思考のもつ問題点は、現在に始まるわけでなく、早い時期からさまざまな問題点が指摘され、乗り越えようとする試みがなされてきている。先に他の問題の解説で述べた「ニーチェ・サルトル・フッサール・レヴィストロース」などは、新しい視点によりさまざまな考察を展開している。

 

 


さて純粋感覚体験の話をする前に、「最近の北朝鮮の動きやロシア、中国についての話題」が小論文にも扱われているようですので、同じように「デカルト」的なものを乗り越えようとしたマルクスについて少しお話しします。
二十世紀を特徴付けるものに共産主義運動があります。「デカルト」や「ヘーゲル」の考えは頭の中だけで、物事を考え体系を作ろうとするだけで、現実社会に働きかける有効な手段を持っていないと批判した人に「マルクス」という人がいました。法学、哲学を学んだ後で、彼はイギリスの産業革命後の資本主義社会を分析することから社会の未来を考えようとしました。簡単に彼の考えを箇条書きにしてみます。
① これまでの人類の歴史は「自由人と奴隷」「貴族と平民」「領主と農民」「親方と職人」「封建領主と資本家」の闘争である。
② 今の資本主義制度のもとでは労働者は団結するしかない。
③ 労働者が資本家を打倒すれば、工場などがみんなの共有となり、そこから得られる利益を平等に分配できる。やがては国家が 消滅する。
 この過程を「革命」と呼び共産主義への移行を訴えました。マルクスを学んだ毛沢東が中国を生み、北朝鮮を誕生させ、マルクスを学んだレーニンがソビエト連邦を生み出すことになりました。マルクスの考え方には貧富の差をなくすだけにとどまらず、真の自由についての体系的な構造を持っており、またそれを実現する運動の方針が示されていました。資本主義の持つ矛盾を克服する指針として多くの人々に受け入れられました。が、現在、事態はマルクスの予想したようには推移せず、世界にさまざまな課題をもたらしているようです。

 

 

 では純粋感覚体験の話に戻ります。また余談になりますが、この問題文を読んで啄木の歌を思い出しました。無防備に投げ出された自我が透き通るような青空に吸い寄せられて限りなく希薄な存在になり、大空に広がっていく。そのとき生命は無垢の輝きを放つ。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心」問題文中の「まるで自分で大自然とひとつになり、大自然の委託を実現しつつあるような内的必然性をともなった自由で大らかな感覚」とは、まさに啄木の感じたものではないでしょうか。諸君は今、受験という現実の壁と言う乗り越えるべき課題にぶつかっている。本来の自我は、かたくなに殻に閉じこもりつつ、その内部で未成熟なまま叫びを内に秘めつつ圧縮されていることでしょう。その自我が解放される瞬間が必ず来る、そう信じてがんばりましょう。

 

 


  さて、精神・身体というデカルト以来の心身二元論に関して、メルロ・ポンティという哲学者は身体は対象でもあり自己自身でもある両義的な存在であるとして身体を再度とらえなおそうとしました。身心一元論とでも言いましょうか。精神による身体の統御を説くデカルトに対して、身体の精神からの解放を説く流れです。メルロ・ポンティの身体論をきっかけにして身体に人間性復活の手がかりを見いだそうという流れが登場してきます。
この問題文の筆者の言う「純粋感覚体験」もおそらくこの身体の復権を主張する「身体論」の流れの中にあるものだと思います。「純粋感覚」という表現の「純粋」とはカントの用語でしょう。つまり感覚のうちで「経験」を一切含まないもの、生まれつき人間が備えている「感覚」のことであると思われます。

 



2022年02月02日