現代文語彙9

環境問題の原点

 

 


伝統的な自然観・・明治になって初めて日本ではネーチャーの訳語として、自然という言葉が使われるようになった。ヨーロッパの人々は、人間を拒もうとする自然と闘い、厳しい自然を克服し現代の繁栄を築きあげてきた。自然は征服すべき対象なのだ。人間にとって好ましい形に作りかえようとする。彼らは石を用いて家をつくり続けてきたが、日本は木によって家を作ってきた。暖かみのある、神話をその中に含んだ自然を敬うとともに、私たちは木の家に住んでいる。被害をもたらす自然を征服するのではなく、お供え物をしてひたすらその怒りのおさまるのを待ったのだ。火山は山の神の怒りであり、身の行いを慎むことで、鎮めねばならない怒りなのだ。自然と一体化した生き方をとっていた日本に、自然を対象化することで成立した科学的な学問が発展しなかったのは当然かも知れない。明治になるとともに、主体と客体という概念が導入され、自然に対する見方も変わってきた。このことが環境破壊を生んできたとも言えるだろう。


科学的な見方・・上記に述べた自然を人間の都合のいい形態に変えるのに大きな役割を果たしてきたのは科学技術である。私たちは科学技術のおかげで現在の豊かな生活を営んでいるのだ。しかし、科学技術は、資本主義の要請を受け、差異を基本とする必要のない技術までも生み出し始めている。核兵器、バイオテクノロジーに代表される技術のあり方を再確認する必要があるだろう。また、これらの技術が人間のコントロール下から逸脱する可能性にも目を向ける必要がある。

経済中心の考え方・・好んで環境破壊をしている人などいるはずはない。多くの人は自分の家を欲しがる。山林や野原を切り開いて住宅地に変えていく。過疎地である山村は何とか生き延びようと産業を誘致する。観光道路・ゴルフ場が出来るに伴い、雇用が増え、村の経済が潤う。このことは現在、発展途上国と呼ばれる国々で起こっている現象でもあるのだ。

相対的自然観・・何を自然と呼ぶか、自然と言う言葉から、子供の時、遊びに行った近くの山を私は思い浮かべる。私はこの原体験を元にして自然を考えるが、すでにその山には様々な人為が加わっていた。人間の手が加わらない自然、そんなものが存在しているのだろうか。人為の程度の違いでしかないのだ。自然開発か、自然破壊かは人によって判断が違う。間伐材を使う割り箸は自然、山林を保護しているという意見があることをご存じだろうか。利害関係だけでなく、自然観の違いからの対立もあることを知ってほしい。誰もが納得できる客観的な基準は存在しているのだろうか。人間の行為が、生態系を破壊しているかいないかが一つの基準にはなると思われる。どれほど生態系が守られているかが判断基準になるだろう。

 


環境リスク・・住居環境・労働環境・教育環境などさまざまなものに取り囲まれて君たちは生きている。自然環境についてだけ考えてみよう。森林が破壊され、砂漠化が進み、オゾン層の破壊による温暖化が話題になっている。完全循環型の社会が出来れば環境問題は解決されるが、現在までの技術ではなかなか難しい。ゴミゼロシステムが出来るのはまだだいぶ先のことだろう。当面の対策としては、個々人が行政任せにせず、自分から何かを始めることが大切だろう。
ところで、ダイオキシンの排出濃度などは、どの施設でも基準はクリアしているそうだ。しかしながらダイオキシンは一度体内に入れば排出されず、長期間にわたって摂取すれば危険な状態になるらしい。ほんの少量であっても、かぎりなく灰色に近い存在として、反対する運動はあちらこちらで起こっている。あたらしい基準として「絶対困る危険性」をリスクとして定量的に決定していこうとする動きがある。ガンの発生率を基準にして定量的に決めていこうとする動きである。発ガンリスクを、環境リスクとして考えていこうというわけである。

2022年02月02日