現代文語彙7

言葉について考えよう
言葉と物・・私たちは言葉によって自分の周囲にあるものを名付け、名付けることによって世界を理解していく。したがって、ある物について名前を獲得することが、その存在に対する認識を獲得したことになる。すべての物に名前が与えられ、秩序づけられ整理されることによって、世界の体系化がなされると言ってもいいだろう。物理的に物が存在していたとしても、名前が与えられないうちは、私たちにとって存在しないのと同じなのだ。

 

 

 

言葉と経験・・私たちは、言葉によって自分の周りの世界を把握している。世界のあらゆる物に言葉のラベルを貼り付け、概念化してきた。一方、言葉を使用すれば、自由とか平和といった非実在の概念すら作ることは可能である。実在と直接、私たちは関係していると思っているが実は言葉の網の目を通して、そう感じているだけで、実際には実在と直接関わり合うことは少ないのかも知れない。言葉によって世界をつかもうとする行為をシンボル経験と言うが、シンボルとは言葉のことだ。君たちが現代社会の教科書で、この世の中がわかったと思っても、それは観念的な理解にすぎず、頭の中だけでわかったつもりになったに過ぎない。観念的な理解を真の知識にするためには、体験して確認すること、自分の目や耳などの感覚器官を通して確認することが大切かと思う。テレビの中での恋愛をみて、恋愛なんてとわかったつもりになるのではなく自分の目や耳を通して、肌を通して確認することが、ますます重要な時代になっていると思われる。

言葉と文化・・文化と言葉は密接なつながりを持っている。考えるとき、日本語で考えているわけだが、日本語は既存の秩序に従ったある体系を言葉の内部に持っており、その体系に沿ってしか私たちはものを考えられないのだ。その体系は、日本の文化、伝統に基づいて作られているので、当然、日本的な、日本人としてのものの見方しか出来ないのだ。世界には虹が七色ではないと思っている国の方が多いことをご存じだろうか。フランス人にとっては蝶も蛾も同じパピヨンなのだ。塩をとってくれは、テイクミーではなくパスミーであり、テイクを使えば泥棒だろう。言語は、同じコトを違う言語で表現しているわけではなく、同じ表現に思えても違う内容であると考えた方がいいと思われる。違いを認識した上で異文化理解をしていかなければならない。

文化・・文化はその文化圏で育った人々にひとつの固定的なものの見方を強制することは上記の例でわかったと思う。言語や宗教の違いが戦争や紛争を引き起こすことも多い。したがって文化の違いが戦争を引き起こしているとも言えるのだ。自由にものを考え、自由にしゃべっていると思っているだろうが、それは思いこみにすぎないことを知ってほしい。

2022年02月02日