現代文語彙16

 

2008年度 本試験 1 評論 語彙について

「私たちは昼と夜をまったく別の空間として体験する」空間


「空間として体験する」

この表現について考えてみよう。諸君はさまざまな方法で通学している。その通学路、あるいは通学手段の電車やバス、そして駅は君にとってなじみのある場所である。その場所の空間は、大きくてもせいぜい周囲数百メートルの円から出来ていると思われる。家、学校も円としての空間だろう。君の生きている場所は、いわば数多くの小さな円から出来ていて、その円と円の間は線でつながっている。円の数は成長するにつれて増えているだろうが、行動範囲の円の大きさはあまり変わるまい。この空間は身体を通して直接的に触れている具体的な空間である。目の前には机があり、先生がいて、黒板がある。それらと君の関係は、位置の関係や、君がそれらを認めるという認知関係だけだろうか。そういう事実の関係だけでなく、君にとって、君の周りに存在しているものは、ひとつひとつが君の生きると言うことに関して何らかの意味をもっている。生活している空間は、この意味で「意味に満ちている」だけでなく、空間そのものに意味が有ると言えよう。君は、この意味空間を生き、思考し、行動している。行動しているとは、空間を自分のものにしていることであり、行動することによって主体的な空間を作っている。この空間を体が直接ふれることのできる事物の存在する「感性的な生きた空間」と呼ぶことが出来る。
 時間も同じです。自分の誕生日は、君にとって意味ある時間です。時間も生活や意識と深く関わることで成り立っています。

 

 


「闇の中では、私たちと空間はある共通の雰囲気に参与している。」

次に上記の文の中の「空間」の意味を考えてみよう。諸君は生徒指導部の先生のおられる部屋がなんとなく嫌ではないだろうか。また墓地が好きという人も少ないだろう。具体的にそこが恐ろしい場所と言うことではなく、その場所が「人が忌むべき何か」と結びついた空間だから恐れるのだ。このことから人間は「感性的な生きた空間」だけを生きるのではなく言わば「幻想的な空間」をも生きていることがわかる。さまざまな信仰や畏怖の感情によって空間を区分けし、その性格を決定している。吉本ばななの父の吉本隆明のうちたてた概念に「共同幻想」という言葉がある。宗教や法や国家が共同幻想の例だ。国は実質的なシステムによっても、もちろん成立しているが、多くの人々の間で共通してもたれているイメージとしての側面も大きい。入学式の赤白の幕で覆われた空間は(将来の幸運をいのる場・共同体の神と出会う場所という定義)を持ち、黒白の幕で覆われた空間は(お葬式・死者の魂がまだその辺を浮遊している場所であるとの定義)を持っている。この空間を「幻想的な空間」と呼ぶことが出来る。
 近代以前、空間や時間のもつ意味は宗教や伝統を通じて私たちの間で共有されていました。神社の境内は誰にとっても神聖な場でした。元旦は、世界全体が一斉にリセットされた空間として迎えるものでした。

 

 

「しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行きが存在しない」均質化   脱呪術化  世俗化


 さらに上の文の「均質でのっぺりと広がった空間」「抽象的な空間」「地図のような空間」について考えてみたい。感性的にも幻想的にも区切られていない、密度も濃度も均質な空間である。現代は登山ブームだと言う。日本名山100とかをすべて登ることを目標にしておられる先生がいる。昔の日本では考えられなかったことだ。山はその麓に住む住民にとって神聖な場所であり、みだりに立ち入ってはいけないタブーの地であったはずだ。登山客にはそういう「幻想的な空間」は見えない。現代の登山が成立したのは「均質な空間」が成立した時以来だろう。君たちにとって学校は鉄とコンクリートとガラスで出来た箱形の均質な空間である。開発計画は山を削り、海を埋めて自然が均質な空間であるべき事を証明しようとしているようだ。均質的な空間のあり方を共有してきた結果が自然破壊であり、公害かも知れない。さらに君たちの内部にまでこの空間は広がりはじめている。内部の「均質的な空間」は新聞やテレビを通して知る空間だ。メディアを通し、君たちは世界の全く行ったことのない場所での出来事を、その出来事の起こっている国の人と、同じ時間に、同じものを目の前で見ていると思っているだろう。が、その経験はリアリティのない、現実味のない擬似的な経験である。本当に経験したかのように思いこんでいるだけで、嘘の経験にすぎない。日々の生活基盤である自分の「感性的な生きた空間」が縮小し、行動半径も小さいものでありながら、空間の意識だけは無限に広がり続けている。
 近代は、宗教的・伝統的な意味が失われた時代だ。神聖さや厳粛さはただの迷信だと思われるようになった。空間からも時間からも意味が剥ぎ取られることとなった。こうして人間とは無関係に存在する、無限で均質な空間が生まれたのだ。

 


「奥は時間的な要素を含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い」

 

 ここで「時間」と「間」についても考えてみよう。君たちは今、上級学校めざして日々頑張っている。時間を有効に活用しようとして、現在を将来の自分のための手段として使っている。限りある寿命でしかないことを忘れ、本当にやりたいことを我慢して生きている、現在を空洞化していると言っていい。受験勉強が、この意味で君たちにむなしさを感じさせることがあるかもしれない。

産業化された社会においては利潤の追求が第1に目指すべきものである。したがって製品を作る上でのコストは出来るだけ切りつめねばならない。時間も例外ではない。この価値観が生き方まで支配している。進歩、発展することを何よりも望む資本主義的な考え方にとっては、よけいな時間は無駄としか考えない。よけいな時間はマイナスの価値を与えられ、一分、一秒でも仕事を仕上げる時間を切りつめようとする。遅刻などは罪悪以外の何物でもない。

 

 

農業に従事している人々にとっては時間はプラスの価値観を持つ。生命現象と深く結びついた時間は、切りつめるべきものではない。私たち人間も生命体であるかぎり、時間を切りつめるべきではないと考えられる。職人仕事ではモノを作る過程自体が充実している。人目につかない隠れた部分にも磨きをかける。人々は市場で値段の交渉に時間をかける。交渉の過程自体を楽しんでいるかのようだ。時間は手段ではない。新幹線は速い。多くのレジャーが企画され、旅行はブームであるとも言えよう。しかし早く目的地に着くことが目指され、到着するまでの道程はなくても良いとされる。君が生まれて、成長し、結婚し、子どもを作り、老いて死ぬ。いかに効率よく、いかに短い時間でこの過程を実現するかを君は目指すべきなのだろうか。自分の人生よりも『子どもの教育』に熱心な親優しい先生は『子どもの自主性や創造性』を養うためのプログラム作りに一生懸命である。君たちは幸せなのだろうか。大人から与えられたものに対応するだけで時間を精一杯使おうとする君たちにはどんな将来が待っているのだろうか。

 


 私の子どもの頃には退屈することの出来る自由な時間があった。この有り余った時間こそが、子どもたちをさまざまなものへの探求に向かわせ、好奇心を育て、創意工夫の芽を育てるのではないか。子どもには子どもの世界があり、親は親の領分があり、親は子どもの領分に入り込むことは出来なかった。大人の干渉を受けない自由な宇宙で思う存分、好奇な目を輝かせながら、その世界を遊び回る、これは人生の予行演習であり、試行錯誤であり、模擬行動であった。このような準備をたっぷり持たないと、子どもは教育を受ける条件を身につけることが出来ないのではないか。いくら教育技術が進んでも、方法が進んでも教育される側の条件がそろっていなければ、何も生み出せはしないのではないか。

 


 今の私たちの生活の豊かさと便利さは確かに均質で無限な時間を前提として享受できている。この生徒には有効だが、こちらの生徒には使えないといった教育方法は使えない。日々の生活の中で、能率的、効率的であることを追求しながらどこか違うという感じを抱くのはなぜだろう。時間に染みついた人間の思いが無視されているからではないだろうか。私たちは時間を、自分の外にあると思っている。自分とは無関係に客観的な時間があると思っている。しかし、時間は本来、私たちの生きることと同時にあるものであって、自分の内部にこそあるはずのものである。生きていれば刻一刻と何かが変わる。変わることで時間を刻んでいる。自分の生きることと深くつながった主観的なものとして時間をとらえ直す必要があるのではないだろうか。

 



 さて「間が悪い」「間に合う」」「間がのびる」「間がぬける」「間違い」この「間」とは何か。剣道でも、「間」の取り方が大切だと言われる。能の世界では「生きている時間」であり「時計の時間」に対立している「芸術的時間」だと言われる。小学校の時の粘土細工を思い出して欲しい。あるいは料理を作る過程の中で君は主体的に行動している。作成に至るまでの現在の時間、それ自体が目的になっている。物が出来上がるまでの時間、この時間は切りつめられない。これが「間」である。

2022年02月02日