現代文語彙12

2006年本試験1番の評論
「実生活であるところの『実』と呼ばれるものの根拠が疑われはじめた」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「実生活であるところの『実』と呼ばれるものの根拠が疑われはじめた」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」←これは問題文からの引用部分

難しいと感じる諸君、何が書いてあるのか、さっぱりわからん、そう思う諸君も多いに違いない。さてデジタル化から話を始め演劇の歴史まで話をすすめよう。

アナログ  デジタル
アナログテレビという「かつてのテレビ」をご存じだろうか。今は地デジ、BS、CSなどと広がっている。私のような年寄りにはついていくのが精一杯である。

 ところでこの「アナログ」とは何だろうか。アナログやデジタルという言葉は「量」からみた情報の分類の仕方を表している。私たちは様々な量に囲まれている。たこ焼きやリンゴの数のように、1個、2個・・と数えることができる量がある。これとは別に重さや長さのように測ればいくらでも細かく測れる量がある。(13.43㎝など)リンゴの数を離散量(デジタル量)、重さを連続量(アナログ量)と呼ぶ。離散量は、1か0か、二種類のビットから作られる組み合わせパターンに対応させることにより、コンピュータで処理が可能となる。


アナログとデジタルの身近な例として、時計を考えてみよう。アナログ時計と呼ばれる時計は、針によって時間を指し示し、デジタル時計は数値によって時間を表す。デジタル時計(正確で一目で時刻が読みとれる)・アナログ時計(まだどれだけ時間が残されているか、どれだけ時間が過ぎたのかを扇形の広がりの中で読みとっている)アナログ時計の空間の広がりの中で、私たちは、その時間、広がりの中での生命の動きを感じているのではないか。アナログの方が何となくいいと感じる感覚は、人間的な時間にふさわしいからかも知れない。空間性をいわば排除したデジタル時計がモノとしての時間を我々に教えているとすれば、アナログはコトとしての時間を示していると言えるだろう。
 
 さて、 3Kだ、4Kと呼ばれる地デジの画面はかなり精細で緻密で美しい。テレビが映し出す料理の美しさが、実際に見る料理よりももっと生々しく見えると言うことが起こりうる。カメラの機能が肉眼の持つ微細化と緻密化を超える可能性が出てきた。現実そのものと画像とが転倒すること、画像の方が本当よりも本当であり、本当が虚像のように思われる、そんな転倒が実際に起こっているのだ。

 テレビの化粧品のCMを見てみよう。売りたい商品の実体に、イメージを付け加えてその価値を高める。そのイメージは微細になり、緻密になっていく。美少女がその化粧品を使い、男たちのあこがれになっていく。その画像の方が、その商品の実体よりも、もっと実体らしくなっていく。諸君は画像によって付け加えられたイメージを実体と見なし、思わずその商品を手にする。この化粧品を使えば私も美しくなれる。なれるはずがない。ある日、女生徒たちの軍団が偶然テレビのタレントと街角で出会ったとする。彼女たちはこう言うだろう。「あらテレビで見るのとそっくりだわ」テレビのイメージが基準であり、本物は二次的な存在になっている。もしかすると諸君は本物のミカンを口にする前に、そのコピーとしてのオレンジジュースをまず口にしたのではないか。

 

 


 私たちの社会は高度に組織化され、合理化されている。生きていることの実感、日常生活の存在感は生産や労働を見る限り軽くなっている。車を使わずに、山に自らの足で額に汗して登ろうとする人間は、諸君の中に何人いるだろうか。また君たちは日々大量の情報のシャワーを浴びている。これらの情報は国あるいは国に反対する者、マスコミにより、一部の人の価値観によって作られたモノである。考えのみならず、君たちの感性すら、テレビの企業戦略のもと改変されているかも知れない。今年の秋の流行の色?そんなもの誰が決めたのだ。私たちは自ら考えたり、感じる暇すら与えられず、何かにせき立てられ操られ、主体性を無くしていく

諸君は主体性を無くしているだけでなく、内側から自分の欲望すらコントロールされているかも知れない。受験の際に使われる偏差値。本来道具にすぎなかったものが、大学選びの指標となっている。模試のデータの上で、君たちは記号として扱われている。君たちの持っている固有の重さや手触りが均質化され、いわば漂白され数値で、データとして表現されている。今、諸君の頑張っているセンター試験においては性格の異なる各教科を均質化し、数量化が行われている。ほんとにこの数値が諸君の価値や重みを表現しているのだろうか。『我々は「実生活」の確固たる手触りを見失っ』ていると言う筆者の主張がおわかりだろうか。

「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「演劇的虚飾にも実生活的虚飾にもまどわされない人間の実存を見いだそうとしたのが、俗に言うアンチテアトル の手法である」 「近代演劇の写実主義の手法は、「実生活」の確固たる手触りに依拠して「演劇」を疑うべく用意されたのだと一般に 言われているが、むしろ、我々が「実生活」の確固たる手触りを見失ったからこそ、「演劇」を通じてそれを対象化 すべく用意された手法でもあったのである。」 「演劇的虚飾にも実生活的虚飾にもまどわされない人間の実存を見いだそうとしたのが、俗に言うアンチテアトル の手法である」

 



写実主義

人間の持つ感性や自由な想像力を重んじる芸術上の立場をロマン主義と言います。現実よりも幻想的な、空想的な世界を描いています。これに対して現実を重視する立場のことを現実主義・リアリズムと言います。現実をありのままに作品に描こうとする立場を写実主義と言います。写実主義を更に推し進めて人間の生きる姿をありのまま隠すことなく作品にしようとする立場を自然主義・ナチュラリズムと言います。ちなみに感情を表現することを叙情と言い、風景を見たまま表現することを叙景といい、歴史や事実をありのまま表現することを叙事と言います。

演劇
「演劇」とは何か、まずその歴史から考えてみよう。諸君の中にはテレビの「ドラマ」を好んで見ている人も多いのではないか。この「ドラマ」と呼ばれるものは実は「文学作品の一形態である」と言われている。対話のかたちで進行し、役者が演じる事を目的として書かれた作品である。ドラマの語源は、ギリシャ語の「行為する」という語らしい。演技は「行動」であり、ドラマティックに、葛藤・緊張・感情の高まりなどが表現される。

 

 

 あのアリストテレスが「詩学」という書物の中で演劇の起源と役割を最初に論じている。豊饒祈願、収穫の祭りなどの古代の宗教儀式を起源としてギリシャ悲劇が誕生した。ニーチェでも有名な酒神ディオニュソスへの熱狂的賛歌・物語から発展し、詩人テスピスがディテュランボスの物語で主人公を演じたのが演劇の始まりだそうだ。最初は詩人が台詞をかたり、合唱隊がそれにこたえるかたちだったそうだが、その後、俳優や登場人物の数がふえ、演劇が独立した形式として発展したと言うことだ。説明の中でアリストテレスは、「行為を行為するままに模倣すること」が劇であると言っている。

哲学的なギリシャ悲劇は前5世紀に全盛をむかえた。前5世紀半ばには文学的な喜劇も上演されるようになり、前4世紀ごろには、喜劇が悲劇よりも重要視されるようになる。ギリシャ文化がアレクサンダーの征服によって広まるにつれ、喜劇や悲劇は重要性をうしない、人間喜劇が数多く生まれたらしい。恋愛、家族の問題、お金などをめぐっての話であり、登場人物はけちな父親や意地悪な継母である。要は今のテレビドラマの主題に近いもののようだ。俳優はすべて男性でおおげさな衣装を身につけ、登場人物の特徴がひと目でわかる大きな仮面をつけた。この時代の巨大な劇場では、俳優の顔の表情をみわけることは不可能なため、動作が大げさでパターン化しており、大きな声が必要とされた。

 

 

 大きく途中を省略して18世紀の演劇に話を移したい。18世紀演劇は主として俳優のための演劇で、戯曲も特定の俳優の才能にあわせて書かれた。シェークスピアの作品ですら原作の原形をとどめないほどに書きかえられ、「ロミオとジュリエット」がハッピー・エンドだったらしい。
 中世までは演劇、音楽、絵画等、芸術はすべて特権階級のものだった。それが、一般の人々のものになっていく過程では、貴族という限られた者の為の作品であったものから、すべての人に共通する、より大きな普遍性をもった世界を表現するようになっていく。現実主義・リアリズムとは現実を直視しようとする考え方であり「信じられるもの」「現実感のあるもの」「同時代性のあるもの」を表現しようとすることである。貴族だけが楽しめる主観的な演劇から、社会の本質や、人間存在の意義を、人間の理性によって「正しく」認識するための客観的な表現を現実主義の演劇は目指していたと思われる。

 この18世紀を通じて個々に発展してきたさまざまな思想や芸術的概念が、19世紀初頭、ロマン主義として結実することになる。諸君はゲーテの「ファウスト」をご存じだろうか。自分の魂を悪魔メフィストに売りわたす男は、宇宙とたたかいながらあらゆる知識と力を手にいれようともがき苦しむ。ロマン主義作品は精神的なもの、物質や肉体をこえて理想的真実にいたろうとした。近代合理主義に背を向け、個人主義を基本とし、人間の感性や自由を重んじた。合理性より感情を重視し、芸術家は規則にとらわれない存在であるべきだと考えた。したがって、奔放さを特徴とし、その多くは具体的な内容より感情の高まりを主題にしている。 歴史的出来事や異常で非日常的な世界を、かなり単純化された人物をもちいてえがいていたため、現実とはおよそ遠いものと考えられた。

 

 


 19世紀半ばになるとダーウィンの進化論が脚光を浴びることになる。遺伝と環境があらゆる人間の行動の根幹にあるとされた。演劇もこのテーマをえがくべきだと考える人が増え、今までのロマン主義的な作品・精神的なものの価値をすてることになった。フランスのゾラは、劇作家は社会的な病気を直すためには、まず病気の存在を明らかにするべきだと主張した。 芸術の目的は社会生活をよりよくすることであり、劇作家は現実の世界を客観的に観察して描写すべきだと主張した。その結果演劇は、美や理想ではなく社会のより醜悪な部分に目をむけることになっていく。この傾向を自然主義と呼ぶ。

 

 

ロマン主義以降の演劇は完全な写実主義、自然主義であり、現実そのままの再現をめざしてすすんできたが、19世紀末にその目的が達成されると、こんどはさまざまな反写実主義が登場することになる。やや乱暴な言い方ではあるが、演劇界ではこのさまざまな反写実主義が現代まで継続していると言えよう。 いくつか紹介しよう。


 ①ドイツの作曲家ワーグナーは、作曲家や劇作家の使命は神話を創造することだと主張した。この主張を継続する形で象徴主義者という一派が登場した。演劇を脱演劇化すること、すなわち19世紀演劇の技術的・視覚的飾りをすべてとりさり、戯曲と俳優の演技から精神的に価値あるものをひきだすことをめざした。
 
②人間の精神の暴力的でグロテスクな面に注目し、悪夢のような世界を創造する一派も現れた。歪曲と誇張、そして光と闇を暗示的に使用する。その作品は、連続した短い挿話からなり、リズム感あふれる台詞と強烈なイメージが多用され、物語はほとんど人間の救済をめぐって展開する。このグループは表現主義と呼ばれる。

 ③ドイツの劇作家のブレヒトは演劇によって社会を変革できると考え、演劇は政治的であるべきだと主張した。またすぐれた演劇は観客に決断や行動をせまることができるとし、その目的を達成するために、物語演劇に対抗する叙事演劇という理念を提唱した。今日よくつかわれる演劇技法のほとんどは、ブレヒトの影響によるものである。

④ブレヒトと同時代にフランスの理論家アルトーがおり第2次世界大戦後の演劇に多大な影響をあたえた。彼は社会がとりつかれている病をいやすには、宗教的・祝祭的な演劇をつくりだす必要があると主張した。

20世紀演劇で一番人気があり、大きな影響力をもったものは不条理劇である。不条理劇は出来事の因果関係を排除する。言語をたんなるゲームの道具としてとらえてコミュニケーションの力を最小限にしている。また登場人物を原型的人物にまで還元し、場所も特定せず、世界は人間を疎外するばかりか、理解不能なものだとしている。本文に紹介されている「アンチテアトル」とは何もドラマが起こらない演劇であり不条理劇の一種である。

 

実存
次に人間の「 実存」という表現について考えてみたい。「実存」「実際に存在をしていること」と辞書には書いてあるだろうが、理解しにくい。「自分の存在を問いながら生きる主体的な人間存在」とでも言う意味なのだが、今ひとつわからないだろう。これまた近代合理主義、理性のあり方を問い直す一つの流れである。ナイフは「何の目的で作られるか、どういう機能が必要か、材質をどうするか、形はどうあるべきか」といういわば定義があって、その定義に基づいて作られるものだ。だから作る人は、技術的な部分以外は迷う必要はないし、自信を持って行動する(作成する)だろう。ところが人間には定義がない。かつて宗教の支配していた時代、あるいは封建制度や身分制度が確固として存在していた時代には、ある程度の「こういう存在であり、こう生きるべきだ」という指針があったかも知れない。しかし近代においては「人間は、まず急に実際に存在をはじめてしまう。存在にとまどいながら、自分の生きる意味を求めて生きる」しかない。これが「実存」の意味である。サルトルの「嘔吐」は実存に目覚めた人間がある日、周囲を見回したとき、周りの存在の持つ不気味さ、不安定さに耐えきれず嘔吐してしまう人間を描いている。君たちは意味空間で生きている。周りは意味で満ちている。その意味がわかるから安心して生きていられる。ところが言葉の全く通じない外国に、君が旅行した時のことを考えて見て欲しい。トイレがどこか、どうすれば食事が出来るか、全くわからない。不安のあまり、嘔吐どころか恐怖に包まれ泣き出すかも知れない。上級学校を受験する、大学に合格する、それが何の価値もないものであったなら、誰かに価値ある行動であるとすり込まれた、教え込まれたものにすぎないとしたら、今現在、君が頑張っていることに何の意味があるのだろうか。
 いや、大丈夫だ。大学という世界は君が今考えている以上のものを、もたらしてくれるはずだ。私の言葉を信じて勉強して欲しい。

2022年02月02日