現代文語彙22

2011年度 本試験 1 評論 語彙について


「高度情報化社会」とは近代が終わりポストモダンが迎えるであろうと言われている社会のことである。情報化社会とは単に情報機器が発達した社会、大量の情報が飛び交う時代を指すわけではない。他の年度の問題でも繰り返し述べていることだが近代の世界観、デカルト以来の物心二元論、唯物的自然観、機械論的自然観がぐらつきはじめた。物質を基礎とする世界観がゆらぎはじめたのだ。物質はすべて情報という言語で翻訳できるのではないか。人間社会や文明自体ですら情報の集合体と言えるのではないか。その情報化社会の今までにない特質をこの問題は扱っているととらえることも可能であり、そう考えると諸君が学ぶにふさわしい文章と言うことになる。


居間という空間がもとめる挙措の風にたったままいることは合わない。・・
からだで憶えてるふるまいである。・・
体が家のなかにあるというのはそういうことだ。からだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこに
いる他のひとびととの関係である形に整えられているということだ。


 おおざっぱにとらえれば「身体」は「場所という空間内部での具体的事物との関係においてその現実性が確認されていた」とこの前後の文章で鷲田氏は言っている。二元論では人間が精神を持つ唯一の存在であり、したがって世界の支配者である人間は支配の対象としての自然を従える存在であった。人間という精神に自然は仕えるべきなのだ。身体という自然は、ただの物質であるとみなされ、科学の対象とされた。精神、心に従ういわば機械と見なされた。しかし、心、精神は実際に生きること、経験を通して培われるものであり、問題文の作者の言うように身体が精神を形作る母体であるとも言えよう。身体とそれを取り巻く環境、空間、部屋や家具との関係、道路や立ち並ぶ家々との関係、周囲の人々との関係、手を延ばして触ることの出来る物の現実性や足を動かすことで、その物のある位置まで移動できる連続性などを基にして自分とは違う他の人々や物、建物、町、都市とつながっているという意識の中で自己を確認している。身体は皮膚の中の世界として確認出来ていたのではなく、皮膚の外側の世界との相互の浸透によって初めてその存在の確認が出来ていたということだ。


挙措を忘れる・・からだを浸食していく・・・暮らしというものが人体から脱落してゆく・・身体を孤立させな
いという配慮がそこにある・・物との関係が切断されれば身は宙に浮いてしまう・・・周りの空間への手がかり
が奪われている・・・他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる・・見られ聴かれるという関係が成り
立ちにくくなる・・・

今、諸君は空間や時間という語から何を感じるだろうか。おそらく三次元のたてよこ高さのある広がり、過去から今を通して未来へ流れている連続量としか受け止められないのではないだろうか。が、生徒指導部という空間は行きたくない空間だろうし、君の誕生日は単に一年の中のある一日ではなく君にとって特別の時間ではないだろうか。また墓場や神社の境内から何かを感じるのではないだろうか。空間や時間の持つ意味は近代以前において人間の意識や生活と深く関わりを持っていた。身体がまわりとのコンテクスト(文脈)につながりをもつ、とけこむことによって自己の存在を確認してきた。葬式の白黒の幕で覆われた空間、お祝い事の赤白で覆われた空間、両者ともに神と人間、生と死の交錯する特別の空間である。晴れ着、それは晴れの場で着る正装である。ところが近代は空間や時間から意味を剥ぎ取り人間とは無関係なひろがりのある均質なものに変えてしまった。科学も産業も均質で無限な空間と時間を前提に発達してきた。能率的、効率的、合理的であることが追求され、その結果空間や時間に含まれていた人間の思いや感情が無視された。人間と世界とのつながりが断ち切られたのだ。したがって身体は宙に浮いてしまうのだ。この現象は高齢者の施設の問題であって、諸君とは関係ないことのように思われるが実は諸君も宙に浮き始めている。インターネットいや携帯電話のiモードを通して小学生から高齢者まで幅ひろいコミュニケーションが展開されている。ただし、発信者や受信者がどのような属性(年齢、職業、性別など)の個人であるかは定かではない。小学生の女の子は赤い傘を持っている、大人の男性はネクタイをし、女性は化粧していることで年齢性別が認知できた。インターネットでは老人が若者にまじって会話をしたり、女性を装って男性が会話をして男性を誘惑する。小学生が妙に大人っぽくなったり、どこの国の人間かわからないような日本人が出現したり、自分が何者なのかわからなくなっていく。身体がないから、自分の個性の設定は自由自在である。さらに3D、CG、ヴァーチャルの出現により身体ごと別の空間に侵入できる可能性がひろがっている。おそらく空を身体が舞うという疑似体験もそう遠くない未来に出来るようになるだろう。自分という特定の身体性と人格性がそのはっきりした性質を失いはじめる。支えをなくした身体は、確固不動の自分すらなくしてしまうかもしれない。個人の属性が無意味になる。かつて「我思う、ゆえに我あり」世界の中心であった「わたし」が消えていく可能性が現実に起こり始めている。いわゆるアイデンティティの喪失が情報化社会の宿命でもあるのだ。いや喪失ではなくアイデンティティが拡散し、多元化している、そういう危険な状態が起こっていることを知ってほしい。アイデンティティは諸君が自律的に獲得するものではない、他者を介して他者の中で形成されるものだ。


空間の中身を創ってゆく場所・・行為の糸が互いに絡まり合い縒りあわされる中で空間の中身が形を持ちはじめ
る・・・無個性の抽象空間・・・

近代は「空間」を人間の生きることから切り離し客観的なものととらえることで便利さと豊かさを生み出した。
その反面、効率や能率が追求されることで空間の持つ人間性を見失ったとも言えるだろう。宗教や伝統の中で神社の境内や神のすむといわれる霊峰という空間を神聖な場所として私たちはその意味をとらえていた。近代となり、神聖さや厳粛さはただの迷信として捨て去られた。空間の意味が剥ぎ取られ、人間とは無関係に存在する無限で均質なものとしてとらえられるようになってきている。が、実は空間は「私たちが実際に生きる場所」であり主観的なものとして人の思いと深く結びついた様々な意味に満ちている。教室には諸君のさまざまな経験や記憶が染みついていることだろう。均質な空間・時間を前提にして近代科学は発達してきた。自然を機械とみなすことで様々な恩恵を入手してきた。便利さと豊かさを手にしながら違和感を感じているとしたら、私たちは近代によって切り離されたものとのつながりを手にしたいと思っているからだろう。

そこにはいろんな手がかりがある・・・開始されようとしているのは別の暮らしである・・・空間自体が編み直
されようとしている・・手がかりの充満する空間だ・・この空間には文化がある・・

文化、カルチャーはカルティベイトされたもの、耕されたものだ。生きるために自然に手を加えることである。複数の人間が様々な関わりを持ちながら生活する空間の中で作りあげた共通する生活の仕方や考え方である。諸君は日本文化に包まれて、世界をどう見るか、世界でどう生きていくか、を日本語という文化の構造を具現しているものを通して学んでいる。文化とは情報のかたまりであり、その情報を支えるものは共同体である。情報を形作っているものは言語であり、ある共同体のもつ言語の構造が文化であるとも言えよう。言語を離れては人間の意識は存在し得ない。どの地域で生まれたか、生活してきたかでその人の意識は言語によって構造化されている。が文化は、観点を変えれば様々な人や物との関わりを通して常に変化しているものであるとも言える。この意味ではすべての文化は雑種であり可塑的なものである。さて、ここの部分で、文化についてさりげなく「面白い観点」いやとても重要な点が指摘されているように思う。だれもが自分らしさを持ち自分の利益を大切にする。他者と競合したり衝突すると相手を押しのけてでも自分の立場を守ろうとする。が共生を考えるならば、この自尊の思いだけを堅持することは出来ない。共生これは難しい、障害者への差別は良くないと声高に申し立てる人であっても障害者である子供が生まれそうになると中絶を考えてしまう。すべての文化には価値があると主張する人でありながらある国の政治や文化に対し憤慨し、普遍的な人権を叫ぶ。文化や考え方の相違を認め、その優劣を競わないことを相対主義と呼ぶ。この意味では自由主義ですらキリスト教に基づく一つの主義であり、あらゆる人に強制することは望ましくないのかもしれない。人権概念や道徳律を強制することは悪しき普遍主義に過ぎない。この意味で相対主義に基づき多文化を認めることは、現代の政治的闘争、イスラム圏とキリスト圏とのやりとりを見る限り不可能のように思える。先にも述べたが自己は他者との関係においてアイデンティティを持つ。他者からの目を内部に持つこと、自分と他者のいわば共同主観に立つことで新しい自分を見いだす。異質な者との関係を差異の体系としてシステム論的に思考することで他者を自己を深層において認めることが今私たちに求められているのかもしれない。問題文においてグループホームという新しい平等にコミュニケートできる空間において互いに浸透しあう関係において新たなステージとしての文化を創出していると鷲田氏は言っているのだ。おもしろい観点だと思う。

ふるまいを鎮め確かな形を与える・・多型的に動き回らせる・・・空間のその可塑性(柔軟性のある様子)によ
って・・そういう知恵を引き継ごうとしている・・

ここに書かれていることはかつての木造住宅という空間の持つ特性についてである。この内容を理解することはさほど困難ではないだろう。が「からだを眠らせない知恵」という表現がとらえにくいかと思う。医療従事者は「高齢者」の問題を「老化」ととらえる。「臓器不全」を起こした患者には「健全な臓器の移植」をほどこす。植物状態に陥った患者に「生命維持装置」をつけて生かし続ける。これらは価値中立的に技術の可能性を追求しようとする科学の姿勢が前提とされている。対象の意識や気持ちなど関係が無い、生きたいのか、死にたいのかの意思は不問のままである。「老化」は細胞と組織と器官の機能不全の長期的過程に過ぎない。これが機能主義という概念の正体である。すなわち主観的な価値観から解放され中立的な冷静な目で人間を見ているとされる科学の正体である。現在、医療分野では治療(CURE)という機能主義的発想が問い直され、人間を救うという観点からの看護(CARE)が重要視されてきている。末期医療ターミナルケアにおいては生きる意味を積極的に見いだし精神面の救済をはかろうとしている。人として生き、人として死んでゆくとはどういうことかを考えるようになってきているが実はこの考え方はギリシャ時代にその端を発し、ソクラテスの言う「苦しみや痛みを避け快や楽だけを追求するのが人生ではない」という考え方はキリストの「いのちを生きる・ヨハネ福音書」という言葉にも見られ、さらには近代以前にはこの考え方はごく一般的であったと思われる。魂の充実こそが人生の最終的な目的であると言うことだろうか。介護施設や病院の中で臓器や生体の機能の問題への対象として扱われるのではなく、人としての生命の質、生命の尊厳、人格の尊重に配慮された、納得できる人生を支援しようとする試みの一つとしてのグループホームを、木造住宅の持つ特性を鷲田氏は評価している。

2022年02月02日