現代文語彙19

2009年度 追試験 1 評論 語彙について


 伝統という一般的な概念に三つの契機を挙げることが出来るであろう

概念  捨象  抽象   具体   伝統 契機
 概念という語句の説明をしよう。訓読みすれば概ね(おおむね)の念と読める。concept・コンセプトである。ものの意味内容ととってもらえばいい。「犬とは何ですか」と質問されて「犬とは○○です」と答える場合の、○○が概念だ。 ○○という言葉である と言っても良いだろう。この説明ではよくわからないか。



 別の角度から説明する。具体的concreteコンクリートという語句は「あるがままの姿」をあらわす。日常生活の中で出会う色と形を備えたものだ。私の家にいる「カメ」はミドリガメだと思って買ってきたものだが30センチ以上に育ってしまったカメである。アカミミガメである。私のカメは他の家のカメとは違うし、どこかの自然界にいるカメとも違う。私の声に応じてそばに寄ってくる。いつものカメ用の餌でなく魚の切り身を与えるとうれしいのかクルクル回ってみせる。世界でただ一匹のカメであり、名前は「カメ」だ。具体的な私のカメだ。
 諸君は「カメ」という語句を聞いて何を思い浮かべるだろう。私のカメではあるまい。それぞれのカメには細かな特徴があって一つ一つ異なっている。その細かな特徴を捨てて、甲羅とか、足が遅くてウサギに負けたとか、細かな違いを超えた共通したものを引き出す。このように個性を捨てて共通したものを引き出して手に入れたものは具体性が無くなるわけだから、分かりにくいものになるかというとそうでもない。桜、チューリップ、菊などの個々の特徴を捨てて、花びら、おしべ、めしべ、がくなどの共通する特徴に注目すると「花」ができあがる。この『花』は【花】というものの本質を表しているとも言える。この個々の特徴を捨て去ることを捨象(しゃしょう)と言い、捨象を通して引き出されたものを抽象物abstractアブストラクトと言われる。
 このものの持つ具体性を捨象し、抽象的になった内容が概念といわれるものだ。犬の抽象された本質を言葉で表した意味「四本足であり、尻尾があり、哺乳類であって人間の手によって作り出された動物である。古くから家畜化されたと考えられる動物であり、現在も、代表的なペットとして、広く飼育され、親しまれている動物」これが概念だ。
 ここで「三つの契機」という場合の契機は「きっかけ」という意味ではなく『要因・ものごとがそうなった原因』という意味で使われているようだ。つまり「伝統」と言われるようになった理由が三つあるくらいに理解すればいいだろう。受け伝えの作用のあるものが伝統であり、系統的であり脈絡的(一貫したつながりがある)であるものが伝統である。持続性もある。それが伝統だ、筆者はそう言っている。


個々の事象に関わっている。したがって伝統は様々な位相でとらえられる

事象 

この語句は数学の確率の時間に諸君は聞いているだろう。さいころを投げるという試行の結果からは一から六の目のどれかが出るという事象が起こる。試行の結果起こる事柄である。ある事情のもとで、表面に現れた事柄であり、現実の出来事はすべて事象とも言える。

 

位相 

この語句も数学用語と言えよう。topologyトポロジーと呼ばれる数学で、XとYとが位相空間であるとき、XよりYの上への一対一写像があり、fおよびその逆写像とがともに連続であるとき、XとYとは同位相であるという。曲面でいえば、球面と楕円面とは、それらがゴム膜からできているとするとき、破ったり貼ったりしないで互いに変形できるので同位相である。すなわち、理想的なゴム膜の切り貼りしない自然な変形は、同位相写像とみなせる。数学の苦手な諸君は何のことかわけがわからないだろう。要は自分のいる場所から見える様子をあらわす語であり、レベルとか立場とか言い換えても良いかもしれない。この部分の意味は「伝統はさまざまな現象と関係しているので、伝統を文化という立場、あるいは宗教という立場から考えることが出来る」ということだ。ところでよく似た言葉に『次元』という語句がある。空間の広がりの度合いをあらわす言葉だが、この言葉も『位相』とおなじくレベルや立場と言い換えられる。

 

 


ある集団のアイデンティティの成立と解体に関して

アイデンティティ  identity

 何度も出てくる用語であり、耳にタコができるくらい先生から聞いている言葉であろう。ここで再度、別の角度から説明しよう。『自己同一性』自分を実感することとされる。フランス語の『レーゾンデートル』という語句が自分を実感する語として使われていた。自分が存在する理由を確認することで自分の存在を証明しようとする、私の世代はこう主張するサルトルやカミユに夢中になった。学生運動の挫折の中で生きる実感をなくした学生たちは、近代化によって疎外された人間性を何とか取り戻そうとしていた。そして、この『raison d、etre』を使った。

 同じく生きる実感を得られない現代の諸君はアイデンティティという語に惹かれている。満たされすぎた生活の中でこの語句を使っている。自分を実感したければ、自分以外の人と関係を持たなければならない。小学校時代の君は、「今の君」から見れば他者だ。その他者が「今の君」を作り出したことは間違いない。大学に合格するという君の未来、未来の君が「今の君」に生きがいを与えてくれている。家族の中でリラックスしている君友人と一緒に話をしている君は明らかに違う自分であるはずだ。自分は変化している。根本的で変わらない「本当の自分」などいない。「今の君」があるだけだ

 ところで、なぜアイデンティティが求められているのだろうか。恐らくは個人という意識が大きくなりすぎたせいだろう。個人に目を向けるあまり、社会の一員であることを軽く考えるようになっている。「他の人に迷惑をかけなければ何をしようと個人の自由でしょ、先生。」「違う。」こんなことを考えているから、他の人との関わりが見えなくなっている、いや見ようとしなくなってる。単に他者と関わることでなく、他者との関わりを確実にすることが大切なのだ。ピアスをつける諸君は自分を周りの存在とは別であると協調したいようだが、実はピアスをつけている人はたくさんいる。そのピアスをつけている集団の中ではピアスをつけている人は、個性が無くなりその集団に帰属しているに過ぎない。誰もつけていない豆電球を頭に飾れば、立派な個性だが、誰も個性的とは言ってくれない。おばかさんであり、ただの変態としか言われない。個性は他者との関わりを無視した言葉ではなく、目の前のグループとは違う、別のグループに属しているという、いわば特権意識のことなのだ。江戸時代のように身分や職業といった社会的な枠組みによってアイデンティティが保証されていた時代には、衣服の流行やファッションなどには、あまり関心はなかったのだろう。ファッションにこだわる諸君ほど、自分が誰からも認められていないという危機感を抱き、社会において確実な位置付けをほしがっている人が多い気がする。頭を茶髪にしたら、今まで相手にしてくれなかった先生や友人が声をかけてくれたとうれしそうに話してくれた、いつも一人でいることの多かった、気の弱い、自分に自信を持てずにいた生徒を思い出す。


近代は個の自覚が形成され自立的な主体が確立された時期であり

近代
「近代」という語句が出てきました。もう今まで何度か説明してきましたが、日本は明治時代になり、アメリカやヨーロッパの影響を受けて近代化します。現代文の文章は明治以降の文章を扱いますので、近代ヨーロッパの考え方を知る必要があります。むろん近代ヨーロッパを形作った古代・中世の考え方も知っておけば理解が深まります。そこで、ざっとですが「古代」からお話しさせていただきます。


古代
『古代』諸君は世界史が必修だそうなのでギリシャ・ローマの時代と言えばおわかりでしょう。最近では「パーシジャクソン」の映画でオリンポスの神々は話題です。オリンポスの神々は私たちが普通思い浮かべる仏陀やキリストのような絶対的な存在ではありません。自然や人間の生活と結びついた神々であり、私たちと同じような考えや感情を持った神々です。当時の人々はそれらの神々を媒体として自然と自分たちが一体のものであると信じていました。雷は「神鳴り」でした。

 さて、「古代」では戦いに敗れ捕虜となった者は、生命だけは助けられて苦役につかせられました。これが奴隷制度の起源です。古代ローマでは、奴隷の数が市民より数十倍も多いという驚くべき規模に達していました。奴隷は消耗品ですから補充しなければならず、ローマは奴隷補充のために戦争を行ったとも言えます。世界史の習った(ラテフンディアム)大農場で大量の奴隷を酷使し、社会の生産力を確保していたのです。この奴隷制度を背景として考える時間を大量に手に入れた知性ある人々は哲学を始めます。オリンポスの神々のなせる業だという説明では納得できない知性が出現します。自分たちの理性(合理的に考え判断する能力)によって世界の成り立ちを模索し始めます。

 


 彼らは自分の生きているこの世界(生きている場所)以外のものに、世界を成立させている根拠を求めようとしました。この世を超越した何かを探そうとしました。この態度が、世界を二つに分けて考えようとする『二元論』を生み出します。
代表的な哲学者はプラトンです。真に存在するものは何か?プラトンは、この世界を眼に見える世界真に存在するイデアの
世界との2つに分けました。彼によれば我々は洞窟の中に幽閉された囚人のようなもので、光によって明瞭に現わされた真実
の世界に背を向け、その光が作る「影」を真実と思って暮らしているのだそうです。彼は知覚によって観察される個別の事象は、「束の間」でしかないからという理由で幻に過ぎず、一方、真実は「永遠に不変」でなければならない。そしてそれは、さまざまなものに影響される「知覚」ではなく、「理性」によってのみ見い出されるとしました。わけがわからないかな。身の回りには友情と呼ばれる人間関係はたくさん存在しますが、いずれも完全な友情ではないし友情そのものでもありません。しかし、これらの友情の背後には永遠不変で、完璧、かつ抽象的な友情のひな型であるイデアがあると考えるわけです。

 


中世
『中世』について説明します。ここでも支配的な考え方は神と人間という『二元論』です。ローマ帝国の拡大につれてキリスト教が広がっていきます。キリスト(絶対的な神)が人間を支配する世界が出現しました。神(代理としての教会)と神に支配される人間という上下関係が成立しました。
「神」の命令に従い人々は団結し、ヨーロッパの寒く日当たりの悪い痩せた土地に立ち向かいました。森林は広い農地に変わっていきました。反面、教会がすべてを支配し、教会の方針に従わない者を異端、キリスト教以外を悪魔崇拝、邪教、魔女と呼んで処刑した時代です。自白することが異端、異教の最大の証拠でしたので拷問が最も発達したのもこの時代です。神(教会)は教会や聖書の教えには反する考え方や学問を認めませんし、弾圧すらしています。

 


イスラム世界
 さてここで「イスラム世界」が登場します。七世紀に登場したイスラム教は実はキリスト教と「神」を同じくしています。神の声を伝えるのがキリストかムハンマド(マホメット)かの違いだけです。イスラム世界は急速に勢力を拡大します。聖地を同じくするヨーロッパ世界は、その奪還のためという名目で十字軍を組織します。十字軍の派遣の成果およびその負担やその失敗によって大きく変貌していきます。ある意味ではイスラム世界が「近代」ヨーロッパを生み出したとも言えるでしょう。

理性
『近代』大航海時代はご存じでしょう。パイレーツオブカリビアンの世界です。ジョニーディップです。貿易による収益だけではありません。農業も格段に進歩し多くの豊かな恵みをもたらしました。産業革命も始まり、さまざまな製品が大量に供給されるようになり、豊かなヨーロッパが出現しました。人々の貧しい生活を支えてきた神(教会)は不要となり始め、商人たちはむしろ、神の束縛から離れ、自由に富を追求することを求め始めました。神のおかげではなく、自分たちの知恵や努力、理性が、今の生活を生み出したのだという信念のもと、自由な活動を求め始めたのです。近代は「理性」の有無によって世界を二つに分けました。「二元論」は続きます。デカルトは「人間こそが理性を持つ精神的な存在」としました。当然のことながら「この世界を支配すべき存在は人間」なのです。自然は「理性を持たない物質的な存在」に過ぎないので「主体である人間に奉仕すべき家来(客体)」であるとしました。人間が自然に働きかけ、自分に都合の良いように作りかえるのは当然の権利であり、そのための科学技術は正当化されました。人間理性が絶対化され、いわば人間を自然と切り離しました。

 

 


新しい知を生み出すためには歴史的連関が必要であるが、科学の知そのものは基本的に非歴史的である

科学 天動説・地動説  コペルニクス的転回  
事実の積み重ねに思考の重点を置いていた学者たちがおびただしい天体の動きに関するデータを蓄積し、それらのデータを基にして天才的なひらめきでケプラーは理論を構築しました。天体の動きに関する『ケプラーの法則』の誕生です。歴史的連関が必要であるの意味がおわかりでしょうか。

 さらに科学は哲学や宗教をその出発点としています。ケプラーも占星術や錬金術を研究していました。キリスト教の影響を受けた科学者が、自分の興味関心、好奇心にそそのかされて研究を始めました。諸君だって科学に実はごまかされています。根本のところでは正しいと思い込んでいるにすぎません。原子や分子を見たことはないくせに科学的な説明を聞いてなるほどと思い込んでいるわけです。この意味で本文で科学者の知的誠実さはキリスト教によって培われたとか、日本人がヨーロッパのような土壌から科学を取り入れていないと書かれていることがおわかりでしょうか。本来、科学はその起源においても、現在においても神秘性や精神性が含まれていると考えられるのです。

 


ギリシア時代、天動説が常識となっている天文学の世界では、惑星は地球の周りを等速で円運動すると考えられていました。神の創造した世界は完全な調和の世界であり、完全なる図形である「円」こそが神の世界に相応しいものであるという宗教的、神秘的な考え方がすべての学問を支配していた時代です。天動説に反することを唱えるのはキリスト教の教義に反すること、異端となります。異端者と宣告されるとお墓を作ることも許されず、お経もあげてもらえなかったようです。
さて、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも使われるコペルニクス的転回という言葉をご存じでしょうか。(パラダイム転換とも言う)この言葉に使われているコペルニクスと言う人およびガリレオは天動説ではなく地動説を唱え異端とされました。地動説はもちろん今までの科学の考え方を完全に否定するものです。と同時に、それまでの学説とは全く連関を持たず非歴史的と言えます。

 科学の知が非歴史的と言う本文がおわかりでしょうか。本文にも書かれていますが科学というのは実証の学問であります。ニュートンはF=maという法則(仮説)を立てたにすぎません。そしてそれを知られている事実に当てはめてみて矛盾が見つからないので、それを万人が認めたのです。これを演繹と言います。でもこの仮説に基づいて月にまで到達しているのですよ。しかし、すべての現象についてこの仮説が正しいという事実を集めることは不可能です。仮に認められてもそれは『一応の真実』でしかあり得ないのです。20世紀に入って測定技術が進歩して来ると、ニュートンの法則に当てはまらない現象が次々に見つかって来ました。次の天才がアインシュタインです。アインシュタインはその新しく見つかった現象も説明できる新しい仮説を提案したのです。これによって今のところ、その仮説に当てはまらない現象が見つかっていないので、これも現在は『一応の真実』とされているのです。ですから将来また相対性理論が覆える可能性は考えられます。科学は神秘性や精神性が含まれている、そう思うでしょ。


科学の知の体系はそれ自身の西洋的起源を自ら消し去って本質的に世界文明を形成するものとして表れている


文明  

 文章そのものの意味は取りやすいと思われますが、文明と文化はその違いがわかりにくいという質問をよく受けますので説明しておきます。実は両方とも人間の生きることの営みであり、区別されることなく用いられることも多いようです。言葉の成り立ちから言うならば「cultureカルチャー・文化」はcultivateカルティベイト・耕されたもの、生きるために自然に手を加えることです。一方、「civilizationシビリゼィション・文明」はcivilizeシビライズ・都市化することであり、さまざまな面で発達した状態をあらわすものとされます。この二つの用語が区別されて使われる場合もあるようですので、その使い分けを考えてみます。区別されて使われる場合には、学問や宗教のように具体的に目に見えない精神的なものに文化が使われ、コンピューターや自動車のように、目に見える物質的な形あるものに文明が使われるようです。

2022年02月02日